
ポルトガル とい えば
日本語で「写真映りが良い」という表現があります。私は、この表現には、相手を褒める意味が含まれていると思います。これは英語では photogenicというようですが、ポルトガル語では、何というでしょうか?Fotogenicoと言いま ポルトガルから渡航するすべての日本人帰国者及び外国人入国者の方々には、1月17日午前0時から、出国前72時間以内の検査証明が求められるとともに、入国時の検査が実施されます。同証明を提出できない場合は、検疫所長の指定する場所(検疫所が確保する宿泊施設に限る)で14日間 … ポルトガルに関する旅行記・ブログ・体験記を紹介。ポルトガルへの旅行の参考になるかも♪日本最大級の旅行クチコミサイト フォートラベルでポルトガルの旅行プランを検討してみよう! ポルトガル旅行で、美術館巡りをしませんか?ポルトガルの最大都市リスボンでは、貴重な作品が見られる国立古美術館と、個人のコレクションを集めたグルベンキアン美術館があります。日本では見ることのできない美術品の数々は一見の価値あり。 国際電話で使うポルトガルの国番号は「351」です。ポルトガルへ電話をかけるときは、ほとんどの場合、電話番号の最初に「351」を付けて電話をかけます。 ポルトガルの電話番号. ポルトガル・マムルーク海上戦争(ポルトガル・マムルークかいじょうせんそう)は、インド洋で行われた、エジプト・マムルーク朝とポルトガルの海軍同士の戦いである。ポルトガルが喜望峰航路で1498年にインドに到達した後、インド洋での勢力拡大を図ったことで起きた。紛争は16世紀初頭の1505年に始まり、1517年のマムルーク朝滅亡まで続いた。, 1500年 - 1501年に派遣されたカブラル指揮下のポルトガル第2次インド派遣艦隊(英語版)によるカリカット攻撃のあと、インドとエジプトとヴェネツィアを結ぶ香辛料貿易は輸送量が大幅に減少し、価格は暴騰した[1]。, アラブ人の船も直接攻撃されていた。1503年にはインドから帰還中のエジプトの船が初めてポルトガルから略奪され沈められた[2]。, 1504年には17隻のアラブ人の船が、インドの港湾都市パナネ(英語版)でポルトガルに破壊された[2]。, 1504年に、マムルーク朝のスルタン、アシュラフ・カーンスーフ・ガウリーは初めて教皇に特使を派遣した。聖カタリナ修道院の大祭司長(Grand Prior)を送り、教皇がイスラム教徒に対するポルトガル人の狼藉を止めなかった場合、スルタンはレバントのキリスト教の聖地と、国内のキリスト教徒に破滅をもたらすと警告した[2] [3]。, 1504年、インド洋経由の香辛料貿易を必要とする点ではマムルーク朝と利害を共通するヴェネツィア共和国は、可能であればポルトガルの挑戦を排除することを望み、フランチェスコ・テルディ(英語版)を特使としてカイロに派遣した[4]。, テルディは両国間にある程度の協力関係を構築する努力を行い、マムルーク朝に対してポルトガル船を阻止するように働きかけた[4]。, ヴェネツィアが直接介入することはできないと主張する一方で、スルタンのアシュラフ・カーンスーフ・ガウリーに協力してインドと連携し、コーチンとカンヌールの支配者にはポルトガルへの禁輸を働きかけ、カンベイとカリカットのスルタンにはポルトガルと戦うように働きかけた[4]。, このようにして、ヴェネツィアとマムルーク朝の間でポルトガルに対して何らかの同盟関係が結ばれた[5]。, なお、ヴェネツィアがマムルークに武器と熟練した船員を供給したと非難する声がカンブレー同盟戦争中にはあった[1]。, しかし、(スルタン本人はともかく)マムルークたちの海軍作戦への関心は極めて低いものだった。, 「ポルトガル相手の戦争は主に海上での戦いとなった。これはマムルーク達にとって未知の領域であり、海軍とそれに関連するすべてのものは、土地志向のマムルーク騎士によって軽蔑された」[6], 1505年、マムルーク朝のスルタンアシュラフ・カーンスーフ・ガウリーはポルトガル勢力に対する最初の遠征を命じた。艦隊はオスマン帝国から運ばれた木材と武器で建造され、乗組員と船大工は東地中海全域で募集された[1]。, 遠征隊は、アミール・フセイン・アル=クルディの指揮下に11月にスエズを出発し、海を渡ってジェッダに向かった[3] [4]。, これは、フランシスコ・デ・アルメイダの指揮下にポルトガル第7次インド派遣艦隊(英語版)がインド洋に送られたのと同時期だった。, 1506年、アフォンソ・デ・アルブケルケの指揮する別のポルトガル艦隊がムスリム艦隊を倒した後、アラビアの海岸とアフリカの角を襲撃し始めた[7]。, 1507年にはポルトガルの約20隻の艦隊が紅海に入り、そこでインド船を襲撃し、マムルーク朝とインドとの貿易をほぼ崩壊させた[3]。, ポルトガル人は紅海経由のマムルーク貿易を遮断するために1507年にソコトラ島に基地を作ろうとした。だが、島の自然環境があまりにも厳しく、また、目的を果たすためには効果的ではなかったため、ポルトガルは数か月後に島を離れた[8]。, 一方、1507年8月から9月、約50隻のマムルーク艦隊がアデンに駐留していた。これはインドに向かう準備のためだった[3]。, 1507年、再びアミール・フセイン・アル=クルディの指揮下に、インドに艦隊が派遣された[4]。, マムルーク朝は、当時インドで一番の海軍を有していたイスラム教国のグジャラート・スルターン朝と同盟を結んだ[9]。, 艦隊はディーウで暖かく歓迎された。ダルマチア出身のマムルークで当時グジャラートに仕えていたマリーク・アヤース(英語版)も艦隊に加わった。, 合同した艦隊は、チャウルの沖でポルトガル艦隊と激突した。戦いは連合軍の勝利に終わり、ポルトガル艦隊を率いていたロウレンソ・デ・アルメイダは戦死した。ロウレンソは当時のポルトガル領インドの副王フランシスコ・デ・アルメイダの息子だった[9] [10]。, 戦いの結果、チャウルで捕虜になったポルトガル人の解放と息子の死への復讐を求め、フランシスコ・デ・アルメイダが自ら艦隊を率いて出撃した。, ポルトガルは最終的に、1509年のディーウ沖の海戦でマムルーク艦隊を排除することに成功した[11]。, マムルークの抵抗により、ポルトガル人は紅海貿易を完全に阻止できなかった[4]。しかし、供給の中断によって、エジプトでの香辛料価格は非商業的なレベルにまで暴騰した[12]。, マムルーク朝は再びポルトガルに対抗するためにヴェネツィアの助力を得ようとした。この関係を守るため、教皇に対しても外交的な働きかけを行った[9]。, オスマン・ヴェネツィア戦争 (1499年-1503年)(英語版)のアンドレア・グリッティによる1503年の平和条約の署名以来、オスマン帝国と平和を維持していたヴェネツィアは、オスマン帝国との平和を維持し続け、1511年に平和条約を更新した。オスマン帝国は、ポルトガルとの紛争でマムルーク朝に加担することになった[13]。, 条約によって、ヴェネツィアが保有するキプロスなどの地中海の港をオスマン帝国が利用できるようになった[13]。, ヴェネツィアはまたカンブレー同盟戦争でのオスマン帝国の支持を要請したが、こちらは無駄だった[13]。, 1513年、マムルーク朝とベネチア間の商業協定がカイロでドメニコ・トレヴィザン(イタリア語版)大使によって署名された[13]。, 一方、マムルーク朝側の新たな遠征を恐れていたポルトガルは、ペルシアとの和解を企図し、インド洋の北岸にポルトガルの基地を得てオスマン帝国とマムルークの東部に脅威を与えるため同盟の確立に努めた[13]。アルブケルケはゴアでサファヴィー朝のイスマーイール1世が派遣した大使と会見し、返書を用意すると共にルイ・ゴメスを大使として送り出した[13]。, シャー・イスマイルへの手紙の中で、アルブケルケはマムルークおよびオスマン帝国に対する共同攻撃を提案した。, ポルトガルは、ディウの戦いでの勝利と、インド洋でのライバルのイスラム艦隊の排除に続いて、イスラム商船隊の組織的な破壊に努めた[7]。, 1513年、アルブケルケは、インドとマムルーク朝の貿易を完全に停止させるとともに、マムルーク艦隊をインドに送りこむ計画を阻止するために、紅海に対する遠征を主導した[14]。, 1513年2月7日、彼は、24隻の船に1,700人のポルトガル人と1,000人のインド人を乗せてゴアを出発した[14]。アルブケルケは1513年3月26日、 紅海の入り口にあるアデンに上陸し、街を奪おうとしたが、撃退された[8]。, 彼は紅海に出帆し、カマラン島の港を破壊した(1513年6月および7月)。逆風のためにジェッダに行くことはできず、その後再びアデンを砲撃した後、インドに撤退した[8]。, アルブケルケは紅海を経由するスパイス貿易を完全に止めることはできなかったので、ヨーロッパとインドのスパイス貿易の独占には失敗した[8]。しかし、この戦役はスエズのマムルーク港と聖地メッカとメディナへの大きな脅威であり、マムルーク朝のスルタンに多大な圧力をかけた。スルタンはポルトガルに対抗するために、昔からのライバルであるオスマン帝国の助力を求めるほかなかった[15]。, 1514年から1516年にオスマン帝国はポルトガルに対抗するべくマムルーク朝に協力した[9]。, 彼らは、オスマン帝国の指揮官だったセルマン・レイスと火器を提供した。セルマン・レイスはマムルーク朝の部隊に入り、おそらくオスマン帝国のスルタンセリム1世の希望に反して、2,000人の武装したレバンテ人のグループを率い、1514年4月にスエズでスルタン・カーンスーフと会った[15] [16]。, 対ポルトガル戦線への兵力集中は、最終的にはオスマン帝国と対峙しているレバント方面でのマムルーク朝の戦力を弱めるという効果をもたらした[15]。また、艦隊整備にマムルーク朝のスルタンは約400,000ディナールという莫大な出費を要した[15]。, ポルトガル人によるインドとエジプト間のスパイス貿易の混乱に続いて、セルマン・レイスは1515年に19隻のマムルーク艦隊をインド洋に導いた。艦隊は1515年9月30日にスエズを出た[17]。艦隊には3,000人の兵士も含まれ、うち1,300人はトルコ兵だった[17]。, 艦隊はカマランに要塞を建設したが、1516年9月17日にイエメンとアデンの占領に失敗した[17]。, 艦隊は1517年にポルトガルに対してジェッダを守ることができたが、それまでにオスマン帝国とマムルーク朝の間の戦争は激化していた[9]。, その結果、ポルトガル人はインド亜大陸に交易拠点を確立し、マムルーク朝の主要な収入源であったヨーロッパへのスパイス貿易に割り込むことができた[11]。, マムルーク朝は財政的に立ちゆかなくなり、最終的に、オスマン・マムルーク戦争によって陸上で敗れ、オスマン帝国のセリム1世によって征服された。カイロは1517年1月26日にオスマン帝国に占領され、マムルーク朝の崩壊につながった[11]。, オスマン帝国はインド洋に強いプレゼンスを確立し、16世紀の残りの間にそれをさらに発展させることになった[15]。オスマン帝国はマムルーク朝から領土だけでなくインド洋でポルトガルと戦うという任務をも引き継いだ。 ポルトガルにがっかりされた国だった日本. 『ポルトガル二回目の今回は大都市はすべて外した小さな街や村今回の旅参加者10名・全員女性一組の母娘以外すべて一人参加偶然とはいえ、ちょっとびっくりの人員構成でした...』その他の観光地(ポルトガル)旅行についておりさんの旅行記です。 他のヨーロッパ諸国と比べると物価が安く、どこか素朴で懐かしさを感じさせる街並みが残るポルトガル。アズレージョと呼ばれるタイルで飾られた教会や建物が郷愁を誘います。温暖な気候とおいしいシーフードが魅力のポルトガルを訪れてみませんか? 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Unfortunately the Mamluk fleet carried insufficient fire-power" in, "The Mamluk fleet was warmly greeted at Diu by its governor, Malik Ayyaz, a Russian Mamluk who had found favor with the king of Gujarat. ポルトガル情報ブログの人気ブログランキング、ブログ検索、最新記事表示が大人気のブログ総合サイト。ランキング参加者募集中です(無料)。 - 海外生活ブログ ポルトガル(Portugal)の地図を掲載しています。詳細な場所を示した地図ですので海外旅行やポルトガル旅行・観光などに役立ちます。グーグルマップ(Google Map)の地図でポルトガルや西ヨーロッパを … みなさんこんにちは、ポルト特派員のYukaです。 今回はポルトガル料理を語るうえで欠かせないバカリャウ料理を紹介します。 バカリャウとは塩漬けにした干しダラのことで、保存期間が長いことから昔航海に持って行っていたという歴史ある食材です。 ポルトガル旅行で、美術館巡りをしませんか?ポルトガルの最大都市リスボンでは、貴重な作品が見られる国立古美術館と、個人のコレクションを集めたグルベンキアン美術館があります。日本では見ることのできない美術品の数々は一見の価値あり。 ポルトガル観光はいかが?今じわじわと人気が出ているんですよ!この国はイベリア半島の西部を占め、大航海時代を謳歌した歴史ある国なんです☆今回は多くの観光客をひきつけているポルトガルのおすすめ観光スポットをご紹介します♪ ポルトガルに正式に根を下ろしてから26年・・自分で発見したポルトガルのいいこと、わるいこと 色々・・ 趣味はアンティークレースやリネンコレクション。 自然も大好き ポルトガルの昔の文化を研究中・・・ ポルトガルは2000年当時、100人に一人がヘロイン 中毒という状態でした。 その他薬物も含めれば町を歩いていれば必ず薬物使用者に出くわすというかなりぶっとんだ状態だった。. 2位. スペインの隣に位置するヨーロッパの国、ポルトガル。名前は知っているけれど、ポルトガル料理というとあまりイメージがわきませんよね? 一体ポルトガルにはどんなおいしい料理が眠っているのでしょう。 『ポルトガル二回目の今回は大都市はすべて外した小さな街や村今回の旅参加者10名・全員女性一組の母娘以外すべて一人参加偶然とはいえ、ちょっとびっくりの人員構成でした...』その他の観光地(ポルトガル)旅行についておりさんの旅行記です。 ポルトガルのお土産ならこれ!という事で、ポルトガルで売られている商品の中から、お土産に適した商品を厳選してご紹介!ポルトガルと聞いてもピンとこない方、結構いらっしゃるかと思いますので、美味しいお土産、綺麗なお土産、ぜひ、参考になさってくだ… ポルトガルの近隣エリアも検索してみませんか? おすすめ情報があります。 検索範囲を広げる. 読者になる. ポルトガルのチーズ ポルトガルのチーズは、日本のチーズ屋さんではほとんど手に入りません。 ここでチーズ日記に登場するものは、チーズ仲間が現地で買ってきてくれたものがほとんどです。 ポルトガル旅行・ツアーは安心・便利な【jtb】!ヨーロッパ大陸最西端のポルトガルには、歴史を物語る遺産が今も多く残っています。ぜひ、ポルトガルで大航海時代の繁栄を感じてみてはいかがでしょうか。jtbではポルトガルを堪能できるツアーをご用意しております♪ 車を中心に2chから最新車情報、車の雑談をまとめたブログ、車速報です。このページは「高級SUVに乗ってるんだが、車にはつけといた方がいい装備とかある?w」の記事です。 ポルトガル共和国(ポルトガルきょうわこく、ポルトガル語: República Portuguesa )、通称ポルトガルは、南ヨーロッパのイベリア半島に位置する共和制 国家。首都はリスボン。 北と東にスペインと国境を接し、国境線の総延長は1,214kmに及ぶ。 876: 名無しさん@おーぷん 2015/08/30(日)00:55:19 ID:WB2娘が生後三ヶ月のころ、夕飯の買い物に行くために旦那に娘をあずけて「買い物行ってる間みといてね」とお願いしてでかけたお留守番してくれてるしと好物のハーゲンダッツも買って帰ったら、扉に鍵がかかってるまさ ポルトガル情報ブログの人気ブログランキング、ブログ検索、最新記事表示が大人気のブログ総合サイト。ランキング参加者募集中です(無料)。 - 海外生活ブログ ポルトガルが7つの海を制したといわれる15世紀の大航海時代は、航海王子として知られるエンリケがアフリカを探検航海したことがはじまりで、この時に喜望峰に到達しています。 【his】かわいい!おいしい!楽しい!があふれる国、ポルトガル。個性的で美しい街や街を彩る文化、グルメ、可愛いお土産など、ポルトガルがどんな国か、旅行・観光の魅力をご紹介!海外・国内旅行の予約といえば旅行サイトのhis。 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - ポルトガルの用語解説 - 正式名称 ポルトガル共和国 República Portuguesa。面積 9万2212km2。人口 1061万(2013推計)。首都 リスボン。ヨーロッパ南西部,イベリア半島の西部を占める国。北大西洋上のマデイラ諸島とアゾレス諸島を含む。 南ヨーロッパにあるポルトガル。実はワインの名産地であることを知っていますか?日本ではまだあまりなじみのないポルトガルワインですが、海外では高い品質が注目されているんです。今回は、ポルトガルワインの特徴や産地などを詳しくご紹介します。 ポルトガル・マムルーク海上戦争(ポルトガル・マムルークかいじょうせんそう)は、インド洋で行われた、エジプト・マムルーク朝とポルトガルの海軍同士の戦いである。 ポルトガルが喜望峰航路で1498年にインドに到達した後、インド洋での勢力拡大を図ったことで起きた。 ポルトガルが7つの海を制したといわれる15世紀の大航海時代は、航海王子として知られるエンリケがアフリカを探検航海したことがはじまりで、この時に喜望峰に到達しています。 ポルトガルは西ヨーロッパ時間(utc+0000)を採用しています。 ポルトガルと日本の時差は9時間。サマータイム実施中は時計が1時間進められ、日本との時差は8時間に短縮されます。 冬時間 10月最終日曜日から3月最終日曜日まで. <ポルトガルのお土産達> これだけポルトガルに行っても毎回困る事。それはお土産選び。友人の”ポルトガル 土産なんでもいいから買ってきて”の一言が一番困ります。間違ってもキーホルダー やチョコレートは買って帰りたくないし・・・。 詳細はこちら 134件の体験をチェック Porto Bridge Climb ポルト. 読者になる. ポルトガル語はポルトガルやブラジル、アフリカ大陸の一部の国での公用語である。ここで扱うものはポルトガルで話されるイベリアポルトガル語についてであり、文法が異なるブラジルポルトガル語は別ページで解説する。 ==文法== ポルトガル旅行ブログの人気ブログランキング、ブログ検索、最新記事表示が大人気のブログ総合サイト。ランキング参加者募集中です(無料)。 - 旅行ブログ 40. 40. ", Lei n.º 9/2010 de 31 de Maio Permite o casamento civil entre pessoas do mesmo sexo, Segunda-feira já vai ser possível celebrar casamentos entre pessoas do mesmo sexo, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=ポルトガル&oldid=80563661, 2015年の総選挙で、財政緊縮政策を進めてきた社会民主党を中心とする連立与党が勝利。コエーリョが首相に再任されたが、連立与党の獲得議席は過半数を下回った。そのため、社会党が共産党などと野党連合を組み、過半数を確保。その結果、コエーリョ政権の政策方針は議会で否決され、事実上の内閣不信任決議となった。これを受けて、大統領のカヴァコ・シルヴァは社会党の書記長. ポルトガルは、海に囲まれた立地と温暖な気候な特徴の西ヨーロッパの1国。そんなポルトガルでは、魚介類や肉類をはじめ、幅広い食材を使用した伝統料理が多くあります。またポルトガル料理には、日本人も親しみを感じるとある理由が!今回はポルトガルの定番料理と、その料理を … ポルトガル(Portugal)の地図を掲載しています。詳細な場所を示した地図ですので海外旅行やポルトガル旅行・観光などに役立ちます。グーグルマップ(Google Map)の地図でポルトガルや西ヨーロッパを探検。 ポルトガルに関する旅行記・ブログ・体験記を紹介。ポルトガルへの旅行の参考になるかも♪日本最大級の旅行クチコミサイト フォートラベルでポルトガルの旅行プランを検討してみよう! ポルトガルつうしん Ⅱ Portugal dia a dia. ポルトガルについて 西ヨーロッパのイベリア半島の西端に位置するポルトガルは、北と東はスペインと国境を接し、西と南は大西洋に面しています。 年間を通して温暖な地中海気候に恵まれ、中世の雰囲気を残した趣のあるリスボンやポルトの街並みと、のんびり ポルトガルは生活環境の良さとハードルの低さから、特に世界中から注目されている移住先のひとつです。 アジア圏では中国人の富裕層がポルトガル不動産に投資をする動きがあります。 日本人にもポルトガル移住の門戸は開かれています。 ポルトガル旅行・ツアーは安心・便利な【jtb】!ヨーロッパ大陸最西端のポルトガルには、歴史を物語る遺産が今も多く残っています。ぜひ、ポルトガルで大航海時代の繁栄を感じてみてはいかがでしょうか。jtbではポルトガルを堪能できるツアーをご用意しております♪ Gujarat, which traded mainly through the Red Sea and Egypt, continued to resist the Portuguese" in, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=ポルトガル・マムルーク海上戦争&oldid=80076507. 2000年以前のポルトガルは現在の日本と同じように薬物使用を厳罰とし使うことは恥であると周知させ排 … ポルトガルの国番号は351. ポルトガル料理とは?おすすめレシピ10選. ポルトガルに住んで25年。自然大好き、アンティーク大好き、ポルトガルの伝統文化大好き。好きが高じて仕事まで・・・ポルトガルのいいところ、悪いところを紹介しています。 グラサ. 新正書法に準拠した、初学者から中級者向けのポルトガル語辞典です。ブラジルのポルトガル語を中心にしましたが、ヨーロッパのポルトガル語にも目を配りました。 全見出し語に発音記号をつけ、重要語にはカナ発音も添付しました。最重要語は大きな活字で表示したので、どの語が重 … ポルトガル共和国(ポルトガルきょうわこく、ポルトガル語: República Portuguesa)、通称ポルトガルは、南ヨーロッパのイベリア半島に位置する共和制国家。首都はリスボン。, 北と東にスペインと国境を接し、国境線の総延長は1,214kmに及ぶ。西と南は大西洋に面している。ヨーロッパ大陸部以外にも、大西洋上にアソーレス諸島とマデイラ諸島を領有している。, ポルトガルはユーラシア大陸最西端の国家である。ヨーロッパで最初に海路で中国や日本など東アジアとの接触を持った。, 正式名称はポルトガル語で、República Portuguesa[ʁɛˈpuβlikɐ puɾtuˈɣezɐ](レプーブリカ・プルトゥゲザ)。通称、Portugal [puɾtuˈɣaɫ](プルトゥガル)。国名の由来は、ポルトの古い呼び名であるポルトゥス・カレの訛りに由来するとされている。, 日本語の表記は、ポルトガル共和国。通称ポルトガル。漢字表記は葡萄牙で、 葡と略される。英語表記はPortugal、国民・形容詞はPortuguese。, 現在から35,000年前にはクロマニョン人がピレネー山脈を越えてイベリア半島に進出し始め、ポルトガルにもコア川(英語版)(ドウロ川支流)沿いに動物壁画が残されている。紀元前3000年ごろに新石器時代に突入すると、この地でも農業が始まった。紀元前1000年ごろにイベリア半島に到達したフェニキア人によって青銅器文明がもたらされ、ギリシャ人もこの地を訪れた。当時この地にはイベリア人が定住していたが、紀元前900年ごろから断続的にケルト人が侵入を続けた。, 紀元前201年に第二次ポエニ戦争に勝利したローマ共和国は、それまでイベリア半島に進出していたカルタゴに代わって半島への進出を始めた。先住民のルシタニア人(英語版)はヴィリアトゥス(英語版)の指導のもとでローマ人に抵抗したが、紀元前133年にはほぼローマによるイベリア半島の平定が完了し、現在のポルトガルに相当する地域は属州ルシタニアとガラエキア(英語版)に再編された。これ以降、「ローマの平和」のもとでイベリア半島のラテン化が進んだ。, ローマ帝国が衰退すると、イベリア半島にもゲルマン人が侵入を始めた。411年にガラエキアに侵入したスエヴィ人はスエヴィ王国を建国し、西ゴート人の西ゴート王国がこれに続いた。西ゴート王国は585年にスエヴィ王国を滅ぼし、624年に東ローマ領(スパニア属州)を占領、キリスト教の下でイベリア半島を統一[1]したが、内紛の末に711年にウマイヤ朝のイスラーム遠征軍によって国王ロデリックが戦死し、西ゴート王国は滅亡してイベリア半島はイスラーム支配下のアル=アンダルスに再編された。アンダルスには後ウマイヤ朝が建国され、西方イスラーム文化の中心として栄えた。, キリスト教勢力のペラーヨがアストゥリアス王国を建国し、722年のコバドンガの戦いの勝利によってイベリア半島でレコンキスタが始まったあと、868年にアストゥリアス王国のアルフォンソ3世はガリシア方面からポルトゥ・カーレ(英語版)を解放し、ヴィマラ・ペレス(英語版)を最初の伯爵としたポルトゥカーレ伯領が編成された。1096年にこのポルトゥカーレ伯領とコインブラ伯領が、アルフォンソ6世からポルトゥカーレ伯領を受領したブルゴーニュ出身の騎士エンリケ・デ・ボルゴーニャのもとで統合したことにより、現在のポルトガルに連続する国家の原型が生まれた。, ポルトゥカーレ伯のアフォンソ・エンリケスは、1139年にオーリッケの戦いでムラービト朝を破ったことをきっかけに自らポルトガル王アフォンソ1世を名乗り、カスティーリャ王国との戦いのあと、ローマ教皇の裁定によってサモラ条約(英語版)が結ばれ、1143年にカスティーリャ王国の宗主下でポルトガル王国が成立した。, ポルトガルにおけるレコンキスタはスペインよりも早期に完了した。1149年には十字軍の助けを得てリスボンを解放し、1249年には最後のムスリム拠点となっていたシルヴェスとファロが解放された。レコンキスタの完了後、首都が1255年にコインブラからリスボンに遷都された。1290年にはポルトガル最古の大学であるコインブラ大学が設立された。また、1297年にはカスティーリャ王国との国境を定めるためにアルカニーゼス条約(ポルトガル語版)が結ばれ、このときに定められた両国の境界線は現在までヨーロッパ最古の国境線となっている。また、この時期にポルトガル語が文章語となった。, ディニス1世のもとで最盛期を迎えたボルゴーニャ朝は14世紀半ばから黒死病の影響もあって衰退し、百年戦争と連動したカスティーリャとの戦争が続く中、1383年に発生した民衆蜂起をきっかけに親カスティーリャ派と反カスティーリャ派の対立が激化した。最終的にイングランドと結んだ反カスティーリャ派の勝利によって、コルテス(イベリア半島の身分制議会)の承認のもとで1385年にアヴィス朝が成立し、ポルトガルはカスティーリャ(スペイン)から独立した。, ヨーロッパでもっとも早くに絶対主義を確立したアヴィス朝は海外進出を積極的に進め、1415年にポルトガルはモロッコ北端の要衝セウタを攻略した。この事件は大航海時代の始まりのきっかけとなり、以後、エンリケ航海王子(1394年 - 1460年)を中心として海外進出が本格化した。ポルトガルの探検家はモロッコや西アフリカの沿岸部を攻略しながらアフリカ大陸を西回りに南下し、1482年にはコンゴ王国に到達、1488年にはバルトロメウ・ディアスがアフリカ大陸南端の喜望峰を回り込んだ。, 1492年にグラナダ戦争(スペイン語版、英語版)に勝利してレコンキスタが終結したスペインが、1494年にポルトガルとトルデシリャス条約を結び、ヨーロッパ以外の世界の分割を協定した。条約に基づいてポルトガルの探検家の東進はさらに進み、1498年にヴァスコ・ダ・ガマがインドに到達した。また、1500年にインドを目指したペドロ・アルヴァレス・カブラルがブラジルを「発見」し、ポルトガルによるアメリカ大陸の植民地化が進んだ。, 以後、ブラジルは1516年にマデイラ諸島からサトウキビが持ち込まれたこともあり、黒人奴隷貿易によってアフリカから多くの人々がブラジルに連行され、奴隷制砂糖プランテーション農業を主産業とする植民地となった。ブラジルはポルトガルに富をもたらすと同時にブラジルそのものの従属と低開発が決定づけられ、ポルトガルにもたらされた富はイギリスやオランダなどヨーロッパの先進国に流出し、イスパノアメリカの金銀とともに資本の本源的蓄積過程の原初を担った[2]。一方、1509年のディーウ沖の海戦で勝利し、インド洋の制海権を確保してマラッカ、ホルムズとさらに東進したポルトガル人は、1541年 - 1543年には日本へもやってきた[3]。ポルトガル人の到達をきっかけに日本では南蛮貿易が始まり、織田信長などの有力大名の保護もあって南蛮文化が栄えた。さらに、1557年には明からマカオの居留権を得た。この時にポルトガル商人は日本人や中国人らを奴隷として買い付け、奴隷貿易を行い、16~17世紀にかけて続いた(ポルトガルの日本人奴隷貿易)。, こうしてポルトガルは全世界に広大な植民地を獲得したが、国力の限界を越えた拡張とインド洋の香料貿易の衰退によって16世紀後半から徐々に衰退を始め、さらにモロッコの内紛に乗じて当地の征服を目指したセバスティアン1世が1578年にアルカセル・キビールの戦いで戦死したことにより、決定的な危機を迎えた。アルカセル・キビールの戦いの余波は、最終的に1580年のアヴィス朝断絶による、ポルトガルのスペイン・ハプスブルク朝併合に帰結した(スペイン帝国)。, スペイン併合後もポルトガルは形式上同君連合として、それまでの王国機構が存置されたため当初は不満も少なかったが、次第に抑圧に転じたスペインへの反感が強まり、1640年のカタルーニャの反乱(収穫人戦争)をきっかけとした[4]ポルトガル王政復古戦争によりスペインから独立し、ブラガンサ朝が成立した。一方、この時期に植民地では、スペイン併合中の1624年にネーデルラント連邦共和国のオランダ西インド会社がブラジルに侵入し、サルヴァドール・ダ・バイーアを占領した。ブラジル北東部にオランダがオランダ領ブラジル(英語版)を成立(オランダ・ポルトガル戦争(英語版))させたことにより、ブラガンサ朝の独立後の1646年に、これを危機と感じた王家の図らいによってブラジルが公国に昇格し、以降ポルトガル王太子はブラジル公を名乗るようになった。, 1654年にオランダ人はブラジルから撤退し、1661年のハーグ講和条約で、賠償金と引き換えにブラジルとポルトガル領アンゴラ(英語版)(現・アンゴラ)の領有権を認められた。アフリカでは、アンゴラの支配を強化したポルトガルは1665年にコンゴ王国を事実上滅ぼした。また、この時期にモザンビークの支配も強化されたが、18世紀までにそれ以外の東アフリカ地域からはオマーン=ザンジバルによって駆逐された。南アメリカではトルデシリャス条約で定められた範囲を越えてバンダ・オリエンタル(現在のウルグアイ)にコロニア・ド・サクラメントを建設し、以降南アメリカでスペインとの戦争が続いた。, 1696年にはブラジルでパルマーレスのズンビを破り、ブラジル最大の逃亡奴隷国家キロンボ・ドス・パルマーレス(ポルトガル語版)を滅ぼしたことにより支配を安定させ、1750年にはスペイン帝国とマドリード条約(英語版)を結び、バンダ・オリエンタルと引き換えに、アマゾン川流域の広大な領有権を認められ、現在のブラジルに繋がる国境線の前進を果たした。, 広大な植民地を獲得したブラガンサ朝は、17世紀から18世紀にかけて植民地、特にブラジル経営を進めることによって繁栄を保とうとし、ヨーロッパの戦乱には中立を保ったが、産業基盤が脆弱だったポルトガルは1703年にイギリスと締結したメシュエン条約によって、同国との間に経済的な従属関係が成立した。1696年にブラジル南東部のミナスで金が発見され、ゴールドラッシュが発生したため、ポルトガルには多量の金が流入したが、そうして流入した金の多くはイギリスに流出し、国内では奢侈や建築に使用され、産業を産み出さないまま貴族と聖職者が権勢を奮う絶対主義が続き、ピレネー山脈の北部との社会、経済的な隔絶は大きなものとなった。, 1755年のリスボン大地震のあと、ジョゼ1世のもとで権力を握ったセバスティアン・デ・カルヴァーリョ(のちのポンバル侯爵)はポルトガルにおける啓蒙専制君主の役割を果たし、工業化や王権の拡大、植民地経営の徹底、イエズス会の追放などを行ったが、ジョゼ1世の死後には権力を失った。, 1777年に即位したマリア1世の時代にもポンバル侯が進めた政策は続いたものの、1789年のフランス革命によってフランス革命戦争/ナポレオン戦争が勃発すると、国内が親英派と親仏派の対立で揺れる中で、1807年11月にジュノー将軍がリスボンに侵攻し、王室はブラジルに逃れた。ポルトガル本国は半島戦争(スペイン独立戦争)に突入し、介入したイギリス軍の占領を蒙る一方で、以後1808年から1821年まで南米のリオデジャネイロがポルトガルの正式な首都となり、1815年にはブラジルが王国に昇格し、ポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国が成立した。フランスは1811年にポルトガルから撤退したが、王室はブラジルから帰還する気配を見せなかった。, ナポレオン戦争終結後も王室は遷都先のブラジルに留まり続け、ポルトガル本土ではイギリス軍による軍政が続いたが、イギリス軍への不満を背景にした民衆蜂起により1820年にポルトで自由主義革命が勃発し、10月にイギリス軍は放逐された。翌1821年に招集されたコルテスでは憲法が制定され、ジョアン6世がポルトガルに復帰し、立憲君主制に移行した。ブラジルでも革命を受けてジョアン6世が帰国すると、ブラジル人の国民主義者たちによる独立運動が盛んとなり、ブラジル独立戦争の末に1822年にジョゼー・ボニファシオらを中心とするブラジル人ブルジョワジーたちがポルトガル王太子ドン・ペドロを皇帝ペドロ1世に擁立し、ブラジル帝国が独立した。ブラジルの独立によってポルトガルは最大の植民地を喪失した。戦乱でそれまでの産業基盤が崩壊していたポルトガルにとって、それまで多大な富をもたらしていたブラジル喪失の影響は非常に大きなものとなった。, ブラジルの独立後、国内の自由主義者と保守主義者の対立を背景に、ブラガンサ王家の王位継承問題がきっかけとなって1832年から1834年までポルトガル内戦が続いた。内戦は自由主義者の勝利に終わり、自由主義側の代表となった元ブラジル皇帝ペドロ1世がポルトガル王ペドロ4世に即位することで幕を閉じた。その後、自由主義者と保守主義者の主導権争いが続き、1842年にブラジル帝国憲法をモデルにした君主権限の強い憲章体制が確立され、農村における大土地所有制と零細農民の併存という土地所有制度が維持された。憲章体制のもとでロタティヴィズモ(ポルトガル語版)と呼ばれる二大政党制が確立され、鉄道の普及が進んだことによる国内市場の統一も進んだが、ポルトガルにおける議会制民主主義はカシキズモ(ポルトガル語版)(葡: Caciquismo)と呼ばれる農村部のボス支配がその実態であり、権力を握ったブルジョワジー主導の大土地所有制度の拡大が進んだ。さらに大土地所有制の強化による余剰労働力の受け皿となるべき工業化が進まなかったこともあって、19世紀後半から20世紀後半まで多くのポルトガル人がブラジルやポルトガル領アフリカ、西ヨーロッパ先進国に移住することとなった。, また、19世紀になっても工業化が進まず、農業においても徐々に国内市場が外国の農産物に席巻されるようになったため、ポルトガルのブルジョワジーは新たな市場を求めてアフリカに目を向けた。それまでにもブラジル喪失の直後からアフリカへの進出は進められていたが、19世紀末のアフリカ分割の文脈の中でポルトガルのアフリカ政策も活発化した。列強によるアフリカ分割が協議されたベルリン会議後の1886年には、大西洋のポルトガル領アンゴラとインド洋のポルトガル領モザンビークを結ぶ「バラ色地図(ポルトガル語版)」構想が打ち出されたが、1890年にアフリカ縦断政策を掲げていたイギリスと、アンゴラ=モザンビーク間に存在した現在のザンビア、マラウイ、ジンバブエに相当する地域をめぐって対立したポルトガル政府がイギリスの圧力に屈する形でこれらの地域を失うと、アフリカにおけるポルトガル領の拡張は頓挫した[5]。この事件がきっかけとなって共和主義者による王政への批判が進み、王党派は共和主義者による攻撃を受けることになった。そのほかにも1887年にマカオの統治権を清より獲得している。, 1910年10月3日に共和主義者が反乱を起こすと、反乱は共和主義に共鳴する民衆蜂起となり、国王マヌエル2世が早期に亡命したこともあって、1910年10月5日革命が成功し、ブラガンサ朝は倒れ、ポルトガルは共和政に移行した。翌1911年には急進的な1911年憲法が制定され、反乱を扇動した王党派を排除して共和国政府は支持基盤を固めた。1914年に第一次世界大戦が勃発すると、アフリカのドイツ植民地と国際社会の共和制への支持を求めた政府は1916年にドイツ帝国に宣戦布告した。しかし、参戦が食糧危機などの社会不安をもたらすと、戦時中の1917年にシドニオ・パイスがクーデターで政権を獲得するなど政治不安が顕在化し、現状の植民地保持が認められた以外にポルトガルにとって利益なく、第一次世界大戦が終結したあとも政治不安は続いた。, 幾度かのクーデターと内閣崩壊を繰り返したあと、1926年5月28日クーデターにより、マヌエル・ゴメス・ダ・コスタ将軍、ジョゼ・メンデス・カベサダス将軍を首班とする軍事政権が成立し、第一共和政の崩壊とともに革命以来の政治不安には終止符が打たれた。軍事政権のオスカル・カルモナ大統領のもとで財務相アントニオ・サラザールが混乱していたポルトガル経済の再建に成功し、世界恐慌をも乗り切ると、サラザールは徐々に支持基盤を広げ、1932年には首相に就任した。翌1933年にサラザールは新憲法を制定し、独裁を開始。エスタド・ノヴォ(新国家)体制が確立された[6]。, 対外的にはナチス党政権下のドイツやファシスト党政権下のイタリアに近づき、スペイン内戦ではフランシスコ・フランコを支持したサラザールだったが、対内的にはファシズムよりもコーポラティズムを重視し、第二次世界大戦も親連合国的な中立政策で乗り切ったため、戦後もエスタド・ノヴォ体制は維持されることになった。, 第二次世界大戦後、反共政策を維持したサラザールはポルトガルの北大西洋条約機構や国際連合への加盟に成功し、こうした西側諸国との友好政策もあって1950年代は経済が安定する。一方、サラザールの独裁体制に対する野党勢力の反対は、1958年の大統領選挙に立候補した反サラザール派のウンベルト・デルガード(英語版)将軍が敗れたことが合法的なものとしては最後となり、1961年のエンリケ・ガルヴァン(英語版)退役大尉が指導するイベリア解放革命運動(スペイン語版)によるサンタマリア号乗っ取り事件が失敗したことにより、非合法な闘争も失敗に終わった。国内では学生や労働者による反サラザール運動が激化したが、サラザールはこれらの運動を徹底的に弾圧した。, 一方、植民地政策では、第二次世界大戦後に世界が脱植民地化時代に突入していたこともあり、1951年にサラザールはポルトガルの植民地を「海外州」と呼び替え、ポルトガルに「植民地」が存在しないことを理由に形式的な同化主義に基づく実質的な植民地政策を続けたが、占領されていた人々に芽生えたナショナリズムはもはや実質を伴わない同化政策で埋められるものではなかった。1961年2月4日に国際共産主義運動系列のアンゴラ解放人民運動(MPLA)がルアンダで刑務所を襲撃したことによりアンゴラ独立戦争が始まり、同年12月にはインド軍が返還を要求していたゴア、ディウ、ダマンのポルトガル植民地に侵攻し(インドのゴア軍事侵攻(英語版))、同植民地を喪失した。ギニアビサウでも1963年にはギニア・カーボベルデ独立アフリカ党(PAIGC)によってギニアビサウ独立戦争が始まり、モザンビークも1964年にはモザンビーク解放戦線(FRELIMO)によってモザンビーク独立戦争が始まった。, サラザールは国内の反体制派を弾圧しながら植民地戦争の継続を進め、経済的には国内の大資本優遇と外資導入による重工業化を推進して経済的基盤の拡充を図ったが、大土地所有制度が改革されずに農業が停滞を続けたため、戦争による国民生活の負担と相まって1960年代には多くのポルトガル人がアンゴラを中心とする植民地や、フランス、ルクセンブルクなどの西ヨーロッパ先進国に移住した。, 1968年にサラザールが不慮の事故で昏睡状態に陥り[7]、後を継いだマルセロ・カエターノ首相も戦争継続とエスタド・ノヴォ体制の維持においてはサラザールと変わることはなく、国内では学生運動が激化し、さらに戦時体制を支えてきた財界の一部も離反の動きを見せた。軍内でも植民地戦争が泥沼化する中で、社会主義を掲げるアフリカの解放勢力が解放区での民生の向上を実現していることを目撃した実戦部隊の中堅将校の間に戦争への懐疑が芽生えつつあり、1973年9月にはポルトガル領ギニアで勤務した中堅将校を中心に「大尉運動(ポルトガル語版)」が結成された。翌1974年3月、大尉運動は全軍を包括する「国軍運動(英語版)(MFA)」に再編された。, 1974年4月25日未明、国軍運動(英語版)(MFA)の実戦部隊が突如反旗を翻した。反乱軍に加わった民衆はヨーロッパ史上最長の独裁体制となっていたエスタド・ノヴォ体制を打倒し、無血のうちにカーネーション革命が達成された。革命後、共産党と社会党をはじめとする全ての政党が合法化され、秘密警察PIDE(英語版)が廃止されるなど民主化が進んだが、新たに大統領となったMFAのアントニオ・デ・スピノラ(英語版)将軍は革命を抑制する方針をとったためにMFAと各政党の反対にあって9月30日に辞任し、首相のヴァスコ・ゴンサウヴェス(英語版)、共産党書記長のアルヴァロ・クニャル、MFA最左派のオテロ・デ・カルヴァーリョ(英語版)と結んだコスタ・ゴメス(英語版)将軍が大統領に就任し、革命評議会体制が確立された。革命評議会体制のもとで急進的な農地改革や大企業の国有化が実現されたが、1975年の議会選挙で社会党が第一党になったことを契機に社会党と共産党の対立が深まり、1975年11月までに共産党系の軍人が失脚したことをもって革命は穏健路線に向かった。この間、海外植民地ではすでに1973年に独立を宣言していたギネー・ビサウをはじめ、アフリカ大陸南部の2大植民地アンゴラとモザンビーク、大西洋上のカーボ・ヴェルデとサントメ・プリンシペなど5か国の独立を承認した。一方、ポルトガル領ティモールでは、ティモールの主権を巡って独立勢力間の内戦が勃発し、内戦の末に東ティモール独立革命戦線(FRETILIN)が全土を掌握したが、12月にインドネシアが東ティモールに侵攻し、同地を実質的に併合した。こうしてポルトガルは1975年中にマカオ以外の植民地を全面的に喪失し(マカオもまた中華人民共和国から軍事侵攻をほのめかされるなどしたため、中国側へ大幅に譲歩して形だけはポルトガル植民地として残った)、レトルナードス(ポルトガル語版)と呼ばれたアフリカへの入植者が本国に帰還した。, 1976年4月には「階級なき社会への移行」と社会主義の建設を標榜した急進的なポルトガル1976年憲法が制定されたが、同年の議会選挙では左翼の共産党を制した中道左派の社会党が勝利し、マリオ・ソアレスが首相に就任した。ソアレスの後にダ・コスタ(英語版)、モタ・ピント(英語版)、ピンタシルゴと3つの内閣が成立したが、いずれも短命に終わった。1979年の議会選挙では民主同盟が勝利し、サー・カルネイロ(英語版)が首相に就任した。しかし、民主同盟はサー・カルネイロが事故死したことによって崩壊し、以降のポルトガルの政局は左派の社会党と右派の社会民主党を中心とした二大政党制を軸に動くこととなった。1985年の議会選挙では社会民主党が第一党となり、アニーバル・カヴァコ・シルヴァが首相に就任し、翌年1986年1月1日にポルトガルのヨーロッパ共同体(EC)加盟を実現したが、同月の大統領選挙では社会党のソアレスが勝利し、左派の大統領と右派の首相が併存するコアビタシオン体制が成立した。その後もコアビタシオンが続く中、カヴァコ・シルヴァのもとで1987年には急進的な憲法が改正され、EC加盟が追い風となって1980年代後半は高い経済成長が実現され、さらに国営企業の民営化も進んだ。, 1990年代に入り経済が失速したことを受けて、1995年の議会選挙では社会党が第一党となり、アントニオ・グテーレスが首相に就任した。さらに、翌1996年の大統領選挙でも社会党のジョルジェ・サンパイオが勝利し、80年代から続いたコアビタシオンは崩壊した。社会党政権のもとでは1998年のリスボン万国博覧会に伴う経済ブームや民営化政策の進展により、1995年から2000年までに年平均3.5%と高度な経済成長を達成し、同時に社会民主党政権が放置していた貧困問題にも一定の対策が立てられ、ヨーロッパ連合(EU)の始動に伴って1999年に欧州統一通貨ユーロが導入された。しかし、2000年代に入って経済が停滞すると、2002年の議会選挙では右派の社会民主党が第一党となり、ドゥラン・バローゾが首相に就任した。この時期の旧植民地との関係では1996年にポルトガル語諸国共同体(CPLP)が設立され、革命以来冷却化していた旧植民地とポルトガルの関係が発展的な形で再び拡大した。1999年にはマカオが形式的にも中華人民共和国に返還され、実質上植民地をすべて手放した。2002年、名目上ポルトガルの植民地だった東ティモールがインドネシアの占領・実効支配から独立を果たした。こうして1415年の大航海時代の始まりとともに生まれたポルトガル帝国は、21世紀の幕開けと同時にその歴史を終えて消滅した。, 大統領を元首とする立憲共和制国家であり、20世紀においては第二次世界大戦前からの独裁制が長く続いたが、1974年4月25日のカーネーション革命(無血革命)により、48年間の独裁体制が崩壊した。, 一時は主要産業の国有化など左傾化したものの、1976年4月2日に新憲法が発布された。同年4月25日に自由な選挙が行われた。社会党、人民民主党(10月、社会民主党に改称)、民主社会中央党が躍進した。1976年のマリオ・ソアレス政権成立から1986年のEC加盟までの10年間は、急進路線による経済のひずみを是正するための期間であった。, 憲法の制定により民主主義が定着し、さらに1979年の保守中道政権樹立以降、行き過ぎた社会主義を修正している。さらに、1983年に社会党・社会民主党の連立政権樹立以降、両党を中心とする二大政党制となっている。社会党のソアレスは、1986年2月の大統領選挙でからくも勝利し、1991年1月に大差で再選された。他方、1987年と1991年10月の総選挙ではアニーバル・カヴァコ・シルヴァ率いる社会民主党が過半数を制して圧勝し、ともに中道ながら左派の大統領と右派の首相が並び立つことになった。1989年6月には憲法が全面的に改正され、社会主義の理念の条項の多くが削除された。1995年10月、10年ぶりに社会党が第1党に返り咲き、翌1996年1月、社会党のジョルジェ・サンパイオが大統領に選出された。, 政府は直接普通選挙で選出される任期5年の大統領(1回に限り再選が認められている)、議会の勢力状況を考慮して大統領が任命する首相が率いる行政府、任期4年の230人の議員で構成された一院制の共和国議会からなる立法府、および国家最高裁判所を頂点とする司法府により構成されている。, 大統領は首相の任命・解任、法律・条約への署名・拒否、議会の解散・総選挙の決定、軍最高司令官、非常事態宣言の発出などの権限を有するが、多分に名誉職的な性格が強く、ほとんどの行政権限は議会で多数得た政党から選ばれる首相が掌握している。, ポルトガルの軍隊は、正式にはポルトガル国軍(Forças Armadas Portuguesas、FAP)と呼ばれる。2005年時点で、陸軍2万2,400人、海軍1万4,104人、空軍8,900人。ほかに国家憲兵としてポルトガル共和国国家警備隊(Guarda Nacional Republicana、GNR)6個旅団(儀仗任務、地方警察、交通警察、税関を担当)を擁している。, NATO、OECD、EFTAの原加盟国であり、独裁政権崩壊後の1986年にはECに加盟した。現在はEU加盟国であり、EUは現在のポルトガルにとってもっとも重要な政治的交渉主体である。ヨーロッパとの関係では伝統的にイギリスとの関係が深く、現在も1373年に締結された英葡永久同盟条約が効力を保っている。, 旧植民地のブラジルとは特に関係が深く、ブラジルとは文化的、経済的、政治的な関係を強く保っている。, EUとブラジル以外ではアンゴラやモザンビークなどの旧植民地諸国と関係が深く、1996年にはポルトガル語諸国共同体(CPLP)を加盟国と共同で設立した。ポルトガルは1990年代からCPLP加盟国のアンゴラやモザンビークなどのルゾフォニア諸国にポルトガル語教師の派遣を行っており、東ティモールの独立後にも同国にさまざまな援助(特にポルトガル語教師の派遣)を行っている。, 2004年時点でポルトガルは国内外で国際武力紛争を抱えていないが、1801年以来隣国であるスペインが実効支配しているオリベンサの領有権を主張しているため、同国と対立している。しかし、一般的にはEU加盟後の国境開放もあって、隣国であり文化、価値観、言語の類似性を共有するスペインとの関係はおおむね良好である。同時にスペインとの間には両国を統一すべきであるとのイベリズモ思想も存在する。, 1543年、ポルトガル人が日本に初めて来て以降、16〜17世紀にかけてポルトガル人が日本人を奴隷として買い付け、ポルトガル本国を含む海外の様々な場所で売りつけ、大規模な奴隷交易へと発展した[12]。天正10年(1582年)ローマに派遣された天正遣欧少年使節団は、モザンビークや欧州など世界各地で多数の日本人が奴隷の境遇に置かれている事実を目撃し衝撃を受けている。豊臣秀吉の言を伝える『九州御動座記』には、「バテレン(キリシタン)どもは、諸宗を自分達のキリスト教に引き入れ、それのみならず男女数百の日本人を黒舟へ買い取り、手足に鉄の鎖を付けて舟底へ追い入れ、地獄の苦しみ以上に、生きながらに皮をはぎ、あたかも畜生道の有様である」との記述がある[13]。同座記には当時の日本人奴隷の境遇が記録されているが、黒人奴隷の境遇とまったくといって良いほど同等である[13]。, ポルトガルには、現在308都市4,261地区が存在する。その地域区分は、共和国憲法で定められているものと、欧州連合によるものが採用されている。, 2000年時点の都市人口率は53%と、ヨーロッパ諸国としては例外的に低いため、大都市が少ない。多くのヨーロッパ諸国の都市人口率は70% - 90%(たとえば、イギリス89%、スペイン76%)である。ヨーロッパにおいて、ポルトガル以外に都市人口率が低いのは、アルバニアやセルビア、スロベニアなどのバルカン諸国である。, アイスランドに次いで、ヨーロッパ諸国の中でもっとも西に位置する。イベリア半島西端に位置し、国土は南北に長い長方形をしている。本土以外に、大西洋上のアソーレス諸島、マデイラ諸島も領土に含まれる。いずれも火山島である。アソーレス諸島は7つの主要な島からなり、首都リスボンからほぼ真西に1,500キロ離れている。マデイラ諸島は4つの主要な島からなり、南西に900キロ離れている。, ポルトガルの最高峰は、アソーレス諸島のピコ島にそびえるピコ山 (Montanha do Pico) 。標高は2,351メートル。富士山などと同じ成層火山である。本土の最高地点は北部に位置するエストレーラ山脈中のトーレの標高1,991メートル。エストレーラとは星を意味する。, 東部は山岳であり、西部に海岸平野が広がっている。ほとんどの山脈が北東から南西に向かって走っており、北部ほど海岸平野が少ない。主要河川であるテージョ川が国のほぼ中央部を東西に流れており、テージョ川を境として南北に山脈の景観が変わる。首都リスボンはテージョ川に河口部分で面し、最大の海岸平野の端に位置している。南部に向かうにつれて山脈はなだらかになり、丘陵と見分けがつかなくなっていく。ポルトには同国第2の河川であるドウロ川が流れている。このような地形であるため、規模の大きな湖沼は存在しない。全水面積を合計しても440km2にとどまる。また、沿岸部にはポルトガル海流が南西に流れている。, 本土は北大西洋に面しているものの、ケッペンの気候区分では、地中海性気候(Cs)に属する。地域差は大きく、季節の変化も著しい。大西洋岸には寒流のカナリア海流が北から南に流れており、緯度のわりに気温は低く寒暖の差が小さい。夏は涼しく、冬は降雪を含み、雨が多い。年間降水量は1,200 - 1,500ミリである。中部の冬期は北部と似ているが、夏期の気温が上がる。年間降水量は500 - 700ミリである。南部は典型的な地中海性気候で、夏季の雨量が少なく年間降水量は500ミリを下回る。ほとんどの地域で、夏季の気温は20度を超え、冬季は10度まで下がる。, 首都リスボン(北緯38度46分)の気候は、年平均気温が21℃、1月の平均気温が11.2℃、7月は22.8℃。年降水量は706ミリである。冬季の雨量は100ミリ程度だが、夏季は数ミリにとどまる。, 2013年のポルトガルのGDPは約2,199億ドルであり[14]、日本の埼玉県よりやや大きい経済規模である[15]。同年の1人あたりの名目GDPは2万727ドルで世界平均の約2倍だが、EU加盟国の中では平均を下回る。, 1975年に植民地を一度に失ったため、石油を中心とする原料の安価な調達ができなくなり、アンゴラやモザンビークから大量の入植者が本国に引き上げたことも重なって、経済は大混乱に陥った。, 1986年のヨーロッパ共同体 (EC) 加盟以来、ポルトガル政府は金融・情報通信の分野を中心に国営企業の民営化を進め、経済構造はサービス産業型に転換しつつある。1999年1月にユーロ導入。2002年1月1日からEU共通通貨ユーロが流通している。2000年以降、GDP成長率が1%を割り始めた。1人あたり国民所得は加盟国平均の70%程度に止まる。, 主要産業は農業、水産業、食品・繊維工業、観光。地中海性気候を生かし、オリーブ、小麦、ワイン、コルクの生産が盛んである。オリーブ油の生産高は世界7位で、ワインの生産は第10位。第一次産業人口比率は12.6%。土地利用率は、農地 (31%) と牧場 (10.8%)で、森林 (36%) も多い。また、エネルギー分野では代替エネルギーに力を入れている。電力消費の約40%は代替エネルギーでまかなわれており(2007年時点)、政府は2010年までに代替エネルギー比率を45%にする目標を掲げている[16]。また、波力発電のトップランナーを目指し研究を重ねている[16]。, 鉱業資源には恵まれていないが、鉄、銅、錫、銀などを産する。特筆すべきは世界第5位のタングステン鉱であり、2002年時点で700トンを産出した。おもな鉱山はパナスケイラ鉱山。食品工業、繊維工業などが盛んである。, 2002年時点では輸出255億ドルに対し、輸入は383億ドルと貿易赤字が続いており、出稼ぎによる外貨獲得に頼っている。貿易形態は、自動車、機械などの加工貿易である。おもな輸出品目は、自動車 (16%)、電気機械 (12%)、衣類 (11%)で、おもな相手国は、スペイン(21%)、ドイツ(18%)、フランス(13%)。おもな輸入品目は、自動車 (13%)、機械 (10%)、原油 (5%)で、おもな相手国は、スペイン(29%)、ドイツ(15%)、フランス(10%)。, 2002年時点では、日本への輸出が1.7億ドル。おもな品目は衣類(15%)、コンピュータ部品(15%)、コルク(11%)。日本が輸入するコルクの3分の2はポルトガル産である。タングステンの輸入元としてはロシアに次いで2位で、輸入が6.5億ドル。おもな品目は乗用車 (20%)、トラック (10%)、自動車部品 (8%)である。, 2012年になっても経済は復興せず、ポルトガル人の中には、母国の経済的苦境から逃れるためにモザンビークなど旧植民地に移民する動きがある[17]。, 国内交通の中心は道路であり、リスボンとポルトを中心とした高速道路網が整備されている。原則として有料である(一部無料)。, リスボン、ポルト、ファロがおもな国際空港。またこれらの空港から、マデイラ諸島やアソーレス諸島などの離島への路線も出ている。, ポルトガルの国民の大部分はポルトガル人である。ポルトガル人は先住民であったイベリア人に、ケルト人、ラテン人、ゲルマン人(西ゴート族、スエビ族、ブーリ族)、ユダヤ人、ムーア人(大多数はベルベル人で一部はアラブ人)が混血した民族である。, かつてポルトガルは移民送出国であり、特にサンパウロ州でのコーヒー栽培のために、奴隷に代わる労働力を欲していたブラジルには19世紀後半から20世紀初めまでの期間にかけて多くのポルトガル人が移住した。しかし、ブラジルの生活環境や労働環境に耐えられず帰国するものが多かった。ブラジル以外にもベネスエラ、アルゼンチン、ウルグアイなどのラテンアメリカ諸国に多数のポルトガル人が移住した。また、アンゴラやモサンビークなど、アフリカのポルトガル植民地にも多くのポルトガル人が移住した。1960年代から1970年代にかけてはフランスやスイス、ルクセンブルクなど、西ヨーロッパの先進諸国への移民が増えた。, しかし、1973年のオイル・ショックによる先進国での不況や、カーネーション革命による植民地の放棄により多くの在アフリカポルトガル人が本国に帰国し、代わりにカナダ、アメリカ合衆国への移住が行われるようになった。, このように移民送出国だったポルトガルも、近年ではブラジルをはじめ、ウクライナ、ルーマニア、カーボ・ヴェルデ(カーボベルデ系ポルトガル人)、アンゴラ、ロシア、ギニア・ビサウなど、旧植民地や東ヨーロッパからの移民が流入している。, 言語はインド・ヨーロッパ語族ロマンス語系のポルトガル語(イベリアポルトガル語)[18]が公用語である。, 1999年ブラガンサ県のミランダ・ド・ドウロで話されているミランダ語が同地域の公用語として認められた。, また、ポルトガルの北に位置するスペインのガリシア地方の言語ガリシア語はポルトガル語とは非常に近く、特にドウロ川以北のポルトガル語とは音韻的にも共通点が多い。, 宗教はローマ・カトリックが国民の97%を占める。ファティマはマリア出現の地として世界的に有名な巡礼地となった。, 婚姻の際には、自己の姓を用い続ける(夫婦別姓)、あるいは、相手の姓を自己の姓に前置もしくは後置することを選択することが可能である。1977年の法改正で別姓を選択できるようになった[19]。2011年の時点では、既婚女性の60%が婚前の姓をそのまま用いている[20][21]。また、2010年からは、同性同士の婚姻(同性婚)が認められるようになった[22][23]。, 6歳から15歳までが基礎教育(義務教育)期間であり、6歳から10歳までが初等学校(初等教育。基礎教育第一期)、10歳から11歳まで(基礎教育第二期)、12歳から15歳(基礎教育第三期)までが二期に分けられる準備学校(前期中等教育)となっている。前期中等教育を終えると15歳から18歳までが中等学校(後期中等教育。日本における高等学校に相当)であり、後期中等教育は普通コース、技術・職業教育コース、職業教育コース、芸術教育専門コースなどにコースが分かれ、中等学校を終えると高等教育への道が開ける。ポルトガルの初等教育から中等教育にかけての問題としては、留年率の高さなどが挙げられる。, おもな高等教育機関としてはコインブラ大学(1290年)、リスボン大学(1911年)、ポルト大学(1911年)、リスボン工科大学(1930年)、ポルトガル・カトリカ大学(1966年)などが挙げられる。大学は1974年のカーネーション革命以降急速に新設が進み、それに伴い学生数も増加した。, 2003年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は93.3%(男性95.5%、女性91.3%)であり[24]、ヨーロッパ諸国の中ではマルタに次いでセルビア・モンテネグロと並ぶ低さだった。なお、第一次世界大戦直前の識字率は約25%だった。, ポルトガルの文化は、イベリア半島にかつて居住していたケルト人、ローマ人、アラブ人などの影響を受けながら、カトリックを基盤にポルトガル人によって育まれてきた。政治や経済においてポルトガルはイギリスの強い影響を受けて来たが、文化面ではイギリスの文化の影響よりもフランスの文化の影響が強い。隣国スペインと同様に闘牛の文化もある。なお、ポルトガルの文化とブラジルの文化を象徴する言葉に郷愁を表す「サウダージ」(Saudade)という言葉がある。, ポルトガル料理は魚介類を使うことが多く、イワシ、サバ、アンコウなどの多様な魚の中でも、特に干鱈(ほしだら、バカリャウ)がよく用いられる。穀物としては小麦、トウモロコシ、ライ麦、米が用いられ、米はヨーロッパで最多の消費量である。ほかには豚肉が使われる。おもな料理として、フェジョアーダ(ブラジルのものとは異なる)、石のスープ、ガスパチョ、パステル・デ・ナタ、アルフェニンなどが挙げられる。, ポルトガルワイン(ポルトワイン、マデイラワイン、ヴィーニョ・ヴェルデ、ダンワイン)は古くから高い品質を保っている。, ポルトガル文学は12世紀末のガリシア=ポルトガル語でトゥルバドゥール(吟遊詩人)によって詠われた中世叙事詩にはじまった。, 16世紀のルネサンス時代にはポルトガル演劇の父となったジル・ヴィセンテや、詩人のサー・ダ・ミランダなどが現れ、叙事詩『ウズ・ルジアダス』などの作品を残したルイス・デ・カモンイスは、特に国民的な詩人であるとされている[25]。また、15世紀から17世紀前半にかけてはポルトガルの海外進出を反映して紀行文学が栄え、ポルトガル人による西アフリカ探検と奴隷狩りを描いた『西アフリカ航海の記録』のゴメス・エアネス・デ・アズララに始まり、ブラジルの「発見」を記録した『カミーニャの書簡』のペロ・ヴァス・デ・カミーニャ、『東方諸国記』のトメ・ピレス、『東洋遍歴記』(1614)のフェルナン・メンデス・ピントなどが現れた。, 17世紀、18世紀のポルトガル文学は不調だったが、19世紀に入ると1825年にアルメイダ・ガレットの『カモンイス』によってポルトガルに導入されたロマン主義は、ガレットとアレシャンドレ・エルクラーノによって発展させられ、第二世代の『破滅の恋』(1862)などで泥沼の恋愛関係を描いたカミーロ・カステロ・ブランコによって完成された。19世紀半ばからは写実主義のジュリオ・ディニス、エッサ・デ・ケイロス、テオフィロ・ブラガなどの小説家が活躍した。19世紀末から20世紀はじめにかけて、テイシェイラ・デ・パスコアイスはポルトガル独自のアイデンティティを「サウダージ」という言葉に見出し、このサウドディズモから『ポルトガルの海』を残した大詩人フェルナンド・ペソアが生まれた。この時期の日本との関わりにおいては、ヴェンセスラウ・デ・モラエスが特に言及される。, 現代の著名な作家としては、『修道院回想録』(1982)や『白の闇』(1995)で知られ、1997年にノーベル文学賞を受賞した作家のジョゼ・サラマーゴや、ポルトガル近現代史を主なテーマにするアントニオ・ロボ・アントゥーネスなどの名が挙げられる。, カモンイスに因み、1988年にポルトガル、ブラジル両政府共同でポルトガル語圏の優れた作家に対して贈られるカモンイス賞が創設された。, ポルトガルの音楽は、宮廷吟遊詩人や、カトリック教会の音楽の影響を受けて育まれてきた。クラシック音楽においては、19世紀末から20世紀初頭にかけての文化ナショナリズムの高揚からポルトガル的な作品の創作が進められ、ポルトガルの民衆音楽を題材にした交響曲『祖国』を残したジョゼ・ヴィアナ・ダ・モッタや、交響曲『カモンイス』のルイ・コエーリョ、古代ルシタニ族の英雄ヴィリアトゥスを題材にしたオラトリオ『葬送』のルイス・デ・フレイタス・ブランコなどの名が特筆される。, ポルトガル発のポピュラー音楽(いわゆる民族音楽、ワールドミュージック)としては、特にファド(Fado)が挙げられ、このファドを世界中で有名にしたアマリア・ロドリゲス(1920 - 1999)は今でも国内外で広く愛されているが、近年ではドゥルス・ポンテスやマリーザなど、若手の台頭も著しい。ファドにはリスボン・ファドとコインブラ・ファドがある。そのほかにも現代の有名なミュージシャンには、1960年代に活躍し、カーネーション革命の際に反戦歌『グランドラ、ビラ・モレーナ』が用いられたポルトガル・フォーク歌手ジョゼ・アフォンソの名が挙げられる。なお、日本でもCM曲として使われたことで有名になったマドレデウスの音楽はファドとは呼びがたいが(アコーディオンは通常ファドでは使われない)、彼らの音楽も非常にポルトガル的であることは間違いない。, 近年は、アンゴラからもたらされたキゾンバやクドゥーロのような音楽も人気を博し、ポルトガルからもブラカ・ソン・システマのようなクドゥーロを演奏するバンドが生まれている。, また、ポルトガルは近来、デス、ブラック、シンフォニックメタルなどのゴシック要素の強いダーク系ヘヴィメタルの良質なバンドを輩出している。ゴシックメタルバンド、MOONSPELLはポルトガルのメタルシーンを世界に知らしめた。今や世界のメタルシーンのトップバンドとなったMOONSPELLは、ヘヴィメタルとゴシック系の両方のシーンから絶大な支持を得ている。, 絵画においてはルネサンス時代にフランドル学派の影響を受け、この時代にはヴィゼウ派のヴァスコ・フェルナンデスとリスボン派のジョルジェ・アフォンソの対立があり、『サン・ヴィセンテの祭壇画』を描いたヌーノ・ゴンサルヴェスがもっとも傑出した画家として知られている。17世紀には『聖ジェロニモ』のアヴェラール・レベロ、『リスボンの全景』のドミンゴス・ヴェイラのほかに傑出した画家は生まれなかったが、18世紀になるとローマで学んだフランシスコ・ヴィエイラやバロックのドミンゴス・アントニオ・デ・セケイラのような、ポルトガル美術史上最高峰の画家が現れた。19世紀に入ると、ロマン主義派のフランシスラコ・メトラスが活躍した。19世紀後半には絵画でもナショナリズムの称揚が目指され、写実主義のもとにポルトガル北部の田園風景を描いたシルヴァ・ポルトや、『ファド』に見られるようにエリートから隔絶した民衆の世界を描いたジョゼ・マリョアが活躍した。, ポルトガルで発達した伝統工芸として、イスラーム文化の影響を受けたタイル・モザイクのアズレージョや、金泥木彫のターリャ・ドラダなどが存在する。, ポルトガルに映画が伝えられたのは1896年6月で、リスボンでヨーロッパから持ち込まれた映写機の実演にはじまる。その5か月後にはポルトでアウレリオ・ダ・バス・ドス・レイスが自作映画を上映した。ポルトはポルトガル映画の中心地となり、1931年にはマノエル・デ・オリヴェイラによって『ドウロ川』が制作された。オリヴェイラはネオレアリズモの先駆的作品となった『アニキ・ボボ』(1942)などを撮影したのち西ドイツに渡り、1950年代にポルトガルに帰ってから『画家と町』(1956)などを撮影した。1960年代に入ると、フランスのヌーヴェルヴァーグとイタリアのネオレアリズモに影響を受けてノヴォ・シネマ運動がはじまり、『青い年』のパウロ・ローシャや、ジョアン・セーザル・モンテイロらが活躍した。, 現代の映像作家としては『ヴァンダの部屋』(2000)のペドロ・コスタの名が挙げられる。, ポルトガル国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が12件、自然遺産が1件存在する。詳細は、ポルトガルの世界遺産を参照。, サッカーが盛んであり、1934年に国内の1部リーグスーペル・リーガが創設され、おもなプロクラブとしてSLベンフィカ、FCポルト、スポルティング・クルーベ・デ・ポルトゥガルの名が挙げられる。, ポルトガル代表は初出場となった1966年のイングランド大会以降、1986年のメキシコ大会、2002年の日韓共同大会、2006年のドイツ大会、2010年の南アフリカ大会、2014年のブラジル大会と合計6回のワールドカップに出場している。クリスティアーノ・ロナウド、エウゼビオ、マヌエル・ルイ・コスタ、ルイス・フィーゴなどを筆頭に有名な選手を数々輩出している。, 強豪国と言われながら、長い間国際タイトルには恵まれていなかったが(地元開催のEURO2004では準優勝、ワールドカップでは過去最高3位)、EURO2016の決勝で開催国のフランス代表を延長戦の末に下し、悲願の国際タイトル獲得を果たした。, 陸上競技においては、1984年のロサンゼルスオリンピック男子マラソンで金メダルを獲得したカルロス・ロペスや、1988年のソウルオリンピック女子マラソンで金メダルを獲得したロザ・モタ、世界陸上イェーテボリ大会とアトランタオリンピック で10,000メートルを優勝したフェルナンダ・リベイロが挙げられる。, ポルトガルの闘牛はスペインとは異なり、基本的には牛を殺さないが、スペイン国境地帯のバランコスではポルトガル全土で唯一牛を殺す闘牛が行われている[26]。, 但し、統一年についてはスパニア属州に関する史料の少なさにより、確定できていない。624年説の他にも、, 日本では、明の寧波を目指し遭難した船が1543年(天文12年)8月25日に種子島の門倉岬に漂着した出来事を初のポルトガル人の来日であるとしているが、ポルトガル史料では1542年説が有力であるとしている。
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