
ブルーインパルス 英語 記事
英語でも「ブルーインパルス」はそのまま [Blue Impulse]で、直訳すると「青い衝撃」という非常にかっこいい意味になります。 第11飛行隊の内部組織は、飛行隊長を頂点とし、その下に飛行班・整備小隊・総括班という3つの部署が設置されているが、これは他の航空自衛隊の飛行隊と同様である。 第11飛行隊特有の特徴として、パイロットと整備員については任期が3年と定められていることが挙げられる。これは、実戦部隊を離れたがらないパイロットが多い事に配慮し、3年間という条件をつけることによって第11飛行隊への選出を行ないやすくするためである。また、飛行班・整備小隊におい … ブルーインパルス・クレカのニッセンレンとJWingsのコラボ良記事。聖火到着式のカラースモークについて_φ(・_・ 情報ありがとうございます ️ ブルーインパルスには様々なバックグラウンドを持ったパイロットが集まり、展示飛行の成功に向かって、日々の訓練に励んでいる。航空祭などでしか会うことのできないパイロットたちは日々どんなことを考えているのだろうか。今回は、5番機で広報を務める河野3佐と、今年度がラス … ブルーインパルスという曲技飛行隊 - edr日英対訳辞書 To mark the occasion , the Blue Impulse flight team from the Japan Air Self-Defense Force flew over the white castle under a … ブルーインパルスのニュース記事 2/30ページ目を紹介しています。FlyTeam(フライチーム)は、航空ファン・飛行機利用者のためのサイトです。 ブルーインパルスの展示飛行は基本的には6機で行われます。ブルーインパルスの演技課目を理解するためにも、1~6番機それぞれの役割を理解しておくことは大切です。そこで、ブルーインパルスの1~6番機の主な役割を紹介しましょう。 ブルーインパルス(英語: Blue Impulse)は、 航空自衛隊に所属する曲技飛行隊(アクロバット飛行チーム)の愛称である。 エフトイズコンフェクト ブルーインパルス to the world 10個入 食玩・ガム. そもそも「ブルーインパルス」は宮城県東松島市の航空自衛隊松島基地に所属する「第4航空団飛行群第11飛行隊」が正式名称のアクロバット飛行チームの名前です。, 英語でも「ブルーインパルス」はそのまま[Blue Impulse]で、直訳すると「青い衝撃」という非常にかっこいい意味になります。, ただし、よほどアクロバット飛行に詳しい人や日本の事情に詳しい人でない限り「ブルーインパルス」といきなり言われてもわからないと思うので[aerobatic demonstration team of the Japan Self-Defence Force:自衛隊のアクロバット飛行チーム]と言った方が分かりやすいかもしれませんね。, ちなみに、日本だけでなく各国の軍隊も同様に曲芸飛行を行うアクロバット飛行チームを保有しています。, 日本航空自衛隊:Blue Impulse(青い衝撃)アメリカ空軍:Thunderbirds(伝説の鳥)アメリカ海軍:Blue Angels(青い天使)イギリス空軍:Red Arrows(赤い矢)カナダ空軍:Snowbirds(ユキヒメドリ)フィンランド空軍:Midnight Hawks(真夜中の鷹)韓国空軍:Black Eagles(黒い鷹)(リンクはそれぞれのアクロバットチームの公式ページ), やはり多くの国の飛行隊が、飛ぶ事に関連する鳥などの名前が付いているのが特徴的ですね。. カッコいいですね~ これは4番機ですが . 「ブルーインパルス」のブログ記事一覧です。パソコン大好き爺さんの日誌風ブログでもあり、遺言でもあります。【葵から菊へ&東京の戦争遺跡を歩く会The Tokyo War Memorial Walkers】 ブルーインパルス ... そもそも自衛隊だけの話でもないし、ましてここはブルーインパルスの記事 なのでそういう話がしたいのなら他でやれよ。スレ違いだ。 151 ななしのよっしん. ブルーインパルスに関するニュース・速報一覧。ブルーインパルスの話題や最新情報を写真、画像、動画でまとめてお届けします。2020/11/10 - パイロット気分を味わえる?!「ブルーインパルス」のグッズをヴィレヴァン通販で取り扱い開始! - みんなの憧れ! そんなブルーインパルスのヘルメット . [233] 。東宝映画のデザイナーの協力のもと、白を基調にした機体にブルーのストライプを入れ、下面はヴァーミリオンのラインが特徴的なデザインとなった。また主翼も上面はブルーを、下面は無塗装にヴァーミリオンと対照的なデザインであった[233]。なお、92-7872号機は試案機として試案デザインが塗られた。この機体はその後もソロ機として展示飛行を行ったが、新塗装に塗り替えられた[233]。ドロップタンクはオレンジ色に塗装され、翼端側の前方寄りに白色の筆記体で『Blue Impulse』の文字が入っていた。この塗装デザインはF-86Fブルーインパルスが引退する1981年2月までの18年間使用された。, F-86FからT-2へ機種変更することになったブルーインパルスは新たな塗装デザインを一般公募することとなった。これは世界的に見てもあまりなく、前代のデザインを踏襲するのが一般的である(例えば、アメリカのサンダーバーズは機種変更の際デザインを踏襲している)。そして、選ばれたのは意外にも4人の女子高生のデザイン案であった。それはF-86F時代の面影を全く感じさせないもので[233]、フタロシニアンブルー(ダークブルー)を基調にした機体にライトブルーと白のラインが配されたものとなった。この塗装をブルーインパルスのT-2全機に施し、1982年7月25日の松島基地航空祭にて一般公開された。ドロップタンクは演技時に下ろしているが、オレンジ色に塗装され翼端側の中央寄りに白色の筆記体で『Blue Impulse』の文字が入る専用塗装のものが用意されており、フェリー時に使用していた。このデザインはF-86F時代のファンには不評だったようであったが、女子高生の案が採用されたことでファンの層が広いことを示す出来事であった[233]。ただし、デザインした女子高生たちの名誉のために補筆すると、実際に施された塗装は女子高生たちのオリジナルデザインとは機首周りの色のバランスがまったく異なっていて、専門家の助言を得て変更されたものであった。変更したのが誰で何の専門であったのか不詳であるが、オリジナルの良さは失われてしまっている。この塗装は1996年(平成8年)12月に引退するまでの14年あまり使用された。, 1992年(平成4年)11月、T-4ブルーインパルスの塗装デザイン案がT-2の時と同様に一般公募された。選ばれたのは精神科医でもあり、ブルーインパルスの熱狂的なファンでもあった斉藤章二氏のデザイン案であった。幼少のころに強い印象に残ったF-86Fブルーインパルスのデザインを意識した作品であるという[233]。そのデザインは、上面はF-86F同様白でまとめられているが、下面はヴァーミリオンではなくブルーになっている。主翼や水平尾翼も上面は白、下面はブルーで統一されている。尾翼は全面ブルー、そこにポジションの数字が入れられている。ドロップタンクの塗装は機体と同じく上面が白、下面がブルーの2色となった。この塗装デザインは2016年現在も使用されている。, 使用機のうちF-86Fはすべての機体が用途廃止までブルーインパルスで使用されていたわけではない。, なお、F-86F・T-2時代は通常の機体からの改修点が少なかったことから、訓練飛行時に本番に向けた整備やローテーションの関係で機数が不足した場合は通常の機体を借用していたことがあった[321]。, T-4は経年老朽化の為、2012年(平成24年)度より「戦技研究仕様機化改修」をスタートさせ、2020年までに10機が改修され、うち9機は小牧基地でモスボール保管されていた機体を改修し、1機は第303飛行隊に配備されていた機体を改修した。これにより第11飛行隊発足以降、戦技研究仕様機として製造された機体は全て退役した。, 東宝のデザイナーが考案したといわれているが、実際にはチーム内で検討した塗装案を東宝のデザイナーが手直しして、正式デザインが決定された, 但し26-5692はIRAN中であった為、B編隊の1番機は通常仕様のT-4が使われた。, 航空機では重力加速度 (G) の制限値が定められており、これを超えた飛行を行った場合は機体の点検が必要となる, 他の改修点は、非力なためフルスロットルでなくともアフターバーナーを使用可能にするパート・スロットル・アフターバーナー (PTA) は右エンジンも使用するとスモークオイルが完全燃焼してしまうため左エンジンのみ使用可能とするスイッチを追加装備、, ノズルの位置を後方に移設する改修が行われているが、これは通常使用時のスモークの発煙性向上を狙ったものである。, F-86FとT-2では、スモーク発生装置以外で操縦特性に関わる変更点はほとんどなかったため、通常仕様の機体でアクロバット飛行の訓練を行なうことが可能であった, 機体の疲労度の再評価プログラムが行われており、今後他の部隊と同じ仕様へと改修を施したうえで、機体の入れ替えが行われる可能性もある。, JARG(日本航空機研究会)発行のシリアルリスト2001年版による。なお、02-7962号機はブルーインパルスに所属したことのある機体である。, F-86Fを使用していた時期には、1番機のジェット排気が自機のエンジンの空気取り入れ口に入ってきてしまうこともあったという, 早朝から強風が吹いており、聖火輸送機も予定より約1時間早い午前10時に到着した。到着地を羽田へ変更する可能性もあったが、到着を早めることで回避した。, 【ノーカット版】ブルーインパルスの“感謝飛行”を空から見た #医療従事者にエールを, http://www.minpo.jp/news/detail/201304167877, http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130602-00010011-minyu-l07, 自衛隊法(昭和29年法律第165号)第36条: 陸士長等、海士長等及び空士長等の任用期間等, 姫路城:お祝い、49年ぶりブルーインパルス飛行 来年3月「大修理」完成式典 /兵庫, “ゆめ半島千葉国体9月26日〜37年ぶり祭典開幕 開会式に3万3000人熱戦11日間 : 千葉>企画・連載 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)”, http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/chiba/feature/chiba1283956566203_02/news/20100925-OYT8T01077.htm, http://photo.sankei.jp.msn.com/kodawari/data/2012/11/1103iruma/, https://tokyo2020.org/ja/torch/about/otr-about-fac, “「ブルーインパルス」725号機の20年 震災乗り越え退役 更新機体は同機種、その次は?”, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=ブルーインパルス&oldid=81699618, 1番機から4番機までのダイヤモンド隊形で、会場の左側から右側に、60度から70度程度のバンク角で抜けていく, アメリカ空軍主催の「ゴールデン・エア・タトゥー」において、アメリカ人の観客から絶賛された課目, 前述の「タック・クロスI」で、5番機と6番機が交差した後に上昇せずに斜め旋回するもの, リーダーズ・ベネフィット隊形で会場上空を通過。編隊機動連携飛行と航過飛行(フライバイ)でのみ実施, ポイント・スター隊形で会場上空を通過。編隊機動連携飛行と航過飛行(フライバイ)でのみ実施, クリスマスツリー隊形で会場上空を通過。航過飛行(フライバイ)で実施するほか、期間限定で正規科目終了後、着陸前に実施, 1998年の防府市と千歳市での展示飛行で、「車に色がついた」との苦情が寄せられ、調査の結果カラースモークが原因と判明した, 8月 墜落事故で失われた機体の補充として新たに2機の新造T-4アクロバット仕様機を受領. ブルーインパルス(英: Blue Impulse )とは、航空自衛隊に所属する曲技飛行隊(アクロバット飛行チーム) であり、その愛称 。. ブルーインパルスの展示飛行については、12月末までの間、予定しておりません。 なお、令和3年1月以降の予定は、12月中旬頃、本HP上でお知らせ致します。 ※細部についてはイベント主催者もしくは航空祭実施基地の広報担当者までお問い合わせ下さい。 ブルーインパルス. また同年8月25日に開催された松島基地航空祭においては午前中に1番機・5番機・6番機の3機で飛行し、午後には1番機・2番機・3番機の3機で飛行した。, その後、ブルーインパルス所属機の部品交換が進み、9月5日には6機での飛行訓練を再開した。その直後に行われた三沢基地航空祭では訓練の進捗状況により、1番機・4番機・5番機・6番機の4機で展示飛行を行ったが、9月16日の小松基地航空祭から6機での展示飛行が再開されている。, 2019年(令和元年)8月29日には、使用を禁止していたカラースモークの実機試験を実施した。これは2020年(令和2年)の東京五輪関連行事での展示飛行に向けたものであり、まず8月29~31日に地上試験を行い、9月3、4日には空中での試験を実施した。この試験では、スモークの視認性や、空中で拡散するよう改良した染料の地上への影響を確認した。, 2020年3月20日、松島基地で「聖火到着式」が開催された際、ブルーインパルスが「五輪」を描き、改良型のカラースモークが初使用された。, 2020年3月20日、松島基地での東京オリンピック・パラリンピック聖火到着式典においてブルーインパルス史上初となる2チーム・12機体制の飛行[注釈 3]が行われた。A(アルファ)編隊が「五輪」を描き、B(ブラボー)編隊がリーダーズ・ベネフィットを披露した。, 2020年に入って新型コロナウイルスのパンデミックが発生したことで、患者が爆発的に増え、医療従事者等に過大な負担が生じるようになった。世界各地の曲技飛行隊が医療従事者らに向けた展示飛行を実施したことから、ブルーインパルスも医療従事者をはじめとする全国の皆様へ敬意と感謝を示すため、2020年5月29日の12時40分から13時に掛けて東京都心の病院の上空を中心に巡回する展示飛行を実施した[164]。人の集合を避けるため、飛行ルートは飛行開始の3時間前に公表された。, 前述の通り、ブルーインパルスは当初「飛行隊の中で曲技飛行(アクロバット飛行)を担当する1セクション」という扱いで発足している。このことを踏まえ、本節では第11飛行隊として設立された1995年(平成7年)12月以降の体制について記述する。, 第11飛行隊の内部組織は、飛行隊長を頂点とし、その下に飛行班・整備小隊・総括班という3つの部署が設置されている[165]が、これは他の航空自衛隊の飛行隊と同様である[165]。, 第11飛行隊特有の特徴として、パイロットと整備員については任期が3年と定められている[166]ことが挙げられる。これは、実戦部隊を離れたがらないパイロットが多い事に配慮し[133]、3年間という条件をつけることによって第11飛行隊への選出を行ないやすくするためである[133]。また、飛行班・整備小隊においては階級が「空士」の隊員は存在しない[7][注釈 4]。これは、空士は2等空士・1等空士・空士長とも任用期間が3年(2任期目以降は2年)に限られており[167]、第11飛行隊の3年という限られた任期の中では、他の部隊で行われているような新人養成や空曹への昇進試験などに時間を割く余裕がないための配慮[7]である。, 通常の制服のほかに『展示服』と呼ばれる、展示飛行の際に着用するための専用の制服や飛行服が用意されている[注釈 5]ことや、整備員とパイロットの連帯感が強い[168]ことも特徴である。相互の理解を深めるため、訓練時にパイロットが他のポジションの後席に同乗する機会を設けている[169]。, 飛行班長以下、1機あたり1〜3人のパイロットが在籍する[165]。パイロットは「ドルフィン・ライダー」と呼ばれており[170]、パイロットスーツの左腕に装着するパッチにも "DOLPHIN RIDER" と記されている[171]。1番機については飛行隊長と飛行班長の両方が担当する期間もある[133]が、2番機から6番機までは交代要員としてのパイロットは存在しない[133]。第11飛行隊は展示飛行の任務しか行なわない[8]ため、日常のミッションはアクロバット飛行やウォークダウン・ウォークバックの訓練となる[8]。, 限られた期間内で訓練と展示飛行をこなす必要があるため、途中での担当ポジションの変更は一切なく[133]、また第11飛行隊に選出されたパイロット自身が担当ポジションを希望することもできない[133]。左胸のネームタグもポジションナンバー入りとなっている[171]。, パイロットの選出にあたっては、操縦技量が優れていること[173]のほか、高度なチームワークが要求されるために協調性があることが求められている[173]。また、広報活動が主な任務であり、航空自衛隊の代表として多くの観衆と接するため、社交性も要求される[173]。なお、手当ては普通のパイロットと同様である[133]。ブルーインパルスへの異動は「本人の希望による異動」と「命令による異動」があり、2003年(平成15年)時点ではどちらかといえば後者の方が多かった[133]が、2010年(平成22年)時点では本人が希望することが多くなっている[174]。, それまでのTAC部隊では全くやったことのない操縦技術を習得せねばならず[133]、最初はどのパイロットも戸惑いがあるという[133]。また、TAC部隊で戦闘機を自在に操っていたパイロットにとっても、訓練内容は高度で厳しい内容であるといわれる[175]。一方、訓練の中で編隊飛行の操縦技量等が著しく向上し、3年の任期を終了してTAC部隊に戻ると、空中集合の早さに同僚のパイロットから驚かれたり[176]、「どうしてこんなに編隊が上手いの?」と質問されたりするという[177]。これについて第11飛行隊の初代飛行隊長は「高度な操縦技術を3年間みっちり行なえば、一般の部隊に戻った後にフィードバックできることも多いはず」と述べている[176]。, なお、展示飛行は日中にしか行われないが、技量維持のため1ヶ月に数回ほど夜間飛行訓練を行なっている[104]。, 基本的に過去の在籍者の再在籍は行われないが、事故による要員不足時に教官要員としての再在籍があったほか、それ以外でも、要員の都合上異動から数年後に担当ポジションを変えて再在籍した例がわずかながらある。また、2020年3月20日に行われた東京オリンピック・パラリンピック聖火到着式典において、史上初の2チーム・12機2チーム体制とする為に、OBがTAC部隊から一時的に異動していた。, ※T-4ブルーインパルスの歴代隊長は部隊を去る際に、飛行隊に込めた思いの言葉を残していく。, 地上クルーのうち整備を担当するのが整備小隊で、整備小隊長以下20人前後が在籍[178]。整備員は「ドルフィンキーパー」と呼ばれ[179]、整備服の左腕に装着するパッチにも "DOLPHIN KEEPER" と記される[171]。1機につき3名の機付整備員が配置され[180]、そのうち1名が機付長として受け持つ機体についての作業を任されている[180]。他の部隊と異なり、機体を磨く作業が重要視されている[181]のが業務内容の特徴である。航空祭などではエンジンスタートや地上誘導などを担当する[178]だけではなく、展示飛行の際にはウォークダウン・ウオークバックを披露する[181]。観客に背中を見せる機会が多いため、展示服の背中にはブルーインパルスのロゴも入っている[171]。, パイロットと同様、任期は3年間を原則としており[178]、通常は1月に着任して実務訓練を受ける[181]。また所属隊員の個人名が紹介されている[179]。, 総括班長は2006年(平成18年)4月までは5番機のパイロットが兼務していた[182]が、2006年4月以降は展示飛行を行なわないパイロットが選任されている[178]。パイロットであるため、ネームタグは飛行班と同じデザインで、7番機のポジションナンバーが入っている[183]。, 総括班は、飛行スーツやヘルメット、酸素マスクなどの維持管理を行う「救命装備員」(LIFE SP)[178][注釈 6]、飛行計画(フライトプラン)を管理する「飛行管理員」(DISP)[178][注釈 7]、物品調達を行う「補給員」(SUPPLY)[178]、その他の庶務を行う「総務員」(ADMIST)[178][注釈 8]という業務内容で、航空祭の時にもパイロットや整備員と同行して展示飛行の準備を行う[178]ため、展示服が用意されている[184]。, 格納庫(ハンガー)は1998年(平成10年)7月に建設された[185]。緩やかなアーチ形状の屋根で[186]、正面には "Home of The Blue Impulse" という文字が入れられており[186]、ハンガー内部の床面中央には直径10mほどの大きさで[187]ブルーインパルスのエンブレムが描かれている[186]。, 飛行隊舎は格納庫に隣接しており[188]、1階には資料展示室がある[189]ほか、屋上には訓練を見学するための観客席が設けられている[189]。, なお、同隊舎と格納庫は2011年(平成23年)3月の東日本大震災による津波で水没し、損傷したが、駐機場と格納庫を約3.6メートルかさ上げし、格納庫には防水扉を設置。滑走路との間に長さ約200メートル、幅約23メートルの誘導路も新設した。, 業務用車両として、現地クルーの移動支援用にトヨタ・ランドクルーザーとホンダ・アクティを導入していた[190]が、2010年(平成22年)に日産・エクストレイルを導入した[191]後、ランドクルーザーは使用されていない[192]。いずれもブルーインパルスの機体と同じイメージの塗装が施されている[192]。この他、ブルーインパルス専用のトーイングカーと電源車を保有する[192]。なお、給油車については飛行群ではなく整備補給群の所属である[192]が、そのうち1台は「スモークオイル専用の給油車」で、松島基地にしか存在しない[193]。, 初代機体F-86Fは、航空自衛隊創設に当たり、アメリカから供与された当時の主力戦闘機である[22]。使用機体は全機改修にて取得されており、ブルーインパルス向けとして新造された機体は存在しない。原則として浜松基地に配備されていた機体の中から以下の条件がそろった機体を選び出し改修していた。, 主な改修点は、後部胴体にある燃料タンクのスモークオイル(発煙油)タンクへの転用[198]、スモーク発生装置のエンジンノズル後方への設置で、一部の計器の配置変更や置き換えも行われている[注釈 10]。スモークオイルのタンク容量は105ガロンで、約50分の連続発煙が可能であった[198]。, しかし、この改造に伴い、本来は飛行に使用する燃料の搭載量が少なくなった。ドロップタンク(増槽)を装備しない場合のF-86F許容G(重力加速度)は7.0Gであるのに対し[197]、ドロップタンクを装備した場合はドロップタンク内の燃料が空でも許容Gは5.5G[197]、燃料満載時には許容Gは5.0Gで[197]、演目によっては許容Gに余裕がなくなる。このため、当初はドロップタンクを外した「クリーン形態」で展示飛行や訓練を行なっていた[29]。しかし、展示飛行の課目の増加に伴って燃料タンクの容量不足が問題化[185]、1966年(昭和41年)頃からは安全上の見地からドロップタンクを常時装着することとなった[197]。, 機体の塗装は、当初は通常塗装(無塗装)機が使用されていた[29]が、第1航空団の部内で募集されたデザイン案の中から、1961年(昭和36年)に金属の地肌に青とピンクとライトブルーの斜めストライプを配した専用デザインが施された[199][注釈 11]。なお、編隊長機のみ青の部分を金色としていた[199][注釈 11]。ピンクやライトブルーの部分は褪色が激しく、白色に近い状態となったため、後から追加改修された機体ではこの部分の色を濃くして対応した[200]。その後、1963年(昭和38年)頃にチーム内で塗装案を検討し[39]、東宝映画『今日もわれ大空にあり』への撮影協力をきっかけに、東宝デザイナーが協力することになった[37]。1963年10月には92-7872号機が試験塗装を施され[201]、これを手直しして1963年11月に正式に新塗装が決定した[39][注釈 1]。, 所属期間は機体によってまちまちで、1年程度しか使用されなかった機体もあれば、解散までのほぼ全期間を通じて使用された機体もある。使用された計34機の内、1981年(昭和56年)の最終飛行時まで在籍していたのは9機、ブルーインパルス所属のまま事故で失われたのは4機[202]。後者の内1機はブルーインパルスとは関係のない学生訓練中に発生した空中接触事故で失われている[202]。この34機の中には米軍からの供与機も含まれており、それらの機体は用途廃止後に米軍に返還されている[202]。一部は無人標的機QF-86Fに改造され、空中標的として使用された[203]。最後まで使用された機体の1機である02-7960号機は用途廃止後もしばらく動態保存状態に置かれ、1985年(昭和60年)11月16日の浜松基地航空祭にてタキシングを披露したが、半年後ブレーキ系統に不具合が生じたため地上展示専用となった[204]。, 2代目機体T-2は、国産初の超音速高等練習機である[205]。パイロットからはF-4EJをブルーインパルス用として推す意見もあった[69]が、大型過ぎることや燃料消費量が大きいことから実現に至っていない[69]。最終的には国産機であることや、練習機であるため操縦性や安定性に優れているという理由でT-2導入が決定した[69]。, しかし、T-2は翼面荷重が大きい超音速機であり、旋回半径も大きかった[69]。エンジン推力が比較的小さいこともあり[73]、高機動を行うと速度低下が著しかった[73]。このため、課目間のつなぎのための旋回(プロシージャーターン)がF-86F時代に比べて大きくなり、演技に間延びした感が出てしまうことは避けられなかった[73]。この間延び対策のために、F-86F時代の標準だった5機編隊にソロを一機加えた6機編隊に変更された[73]。, ブルーインパルスで運用された機体は、後期型6機がブルーインパルス用として新造された[69]ほか、前期型から2機がブルーインパルス仕様に改修されている[69]。1983年(昭和58年)と1986年(昭和61年)に補充のために後期型から1機ずつがブルーインパルス仕様に改修された[206]。, ブルーインパルス仕様の改修点は、アクロバット飛行用に胴体内の第7燃料タンクをスモークオイル用に転用したスモーク発生装置[207]が主なものである[注釈 12]。離陸時にスモークオイルを噴出しないでアフターバーナーを使用するとスモーク発生装置のノズルが溶解してしまう[208]ため、離陸推力とアフターバーナーの併用時にはスモークオイルを流すようにしていた[208][注釈 13]。これによってスモークオイルが高温の排気によって燃焼し、長い炎を曳くことになった[208]が、偶然の産物であった[88]ものの観客には強い印象を与えることになった[73]。これは「トーチング」と呼ばれ、世界のどのアクロバット飛行チームにもないT-2ブルーインパルスだけの特徴となった[88]。, 機体の塗装は、T-2では一般公募が行われた結果、2,055点の応募の中から、女子高生4人のグループによるデザインが最優秀賞となり[29]、このデザインに機首部分と主翼下面を中心とした大幅な修正が行われた上で実機に塗装された[29]。 #ブルーインパルスに関するブログ新着記事です。|心理テスト|石巻方面の空にはブルー|「所さんのそこんトコロ!」録画予約完了です。|秘密の押し入れで見つけたもの|2018年の静浜基地航空 … ここまでのブルーインパルスの展示飛行は5機体制であったが、1976年(昭和51年)9月26日に行われた「第1航空団創立20周年記念式典」においては、6番機を加えた単独機2機による演技が公開され[65]、以降地元浜松基地での展示飛行など特別な場合に6機での演技が披露されるようになる。, しかし、実働部隊ではF-86Fどころか、その後継機であったF-104Jにも後継機としてF-4EJが導入されるようになり[66]、高等練習機としてもT-2の導入が開始されていた[66]。先に述べたようにブルーインパルスのパイロットは教官が兼任しており、この時期のブルーインパルスは1年間に30回以上の展示飛行を行なっていた[67]。これは、F-86Fを使用した飛行教育が減少していたため、その分展示飛行の機会が増えていたということである[67]。こうした事情の中、1978年(昭和53年)3月には、航空幕僚長から松島基地の第4航空団に対して、T-2によるアクロバット飛行について研究するように指示が出され[65]、同年からは松島基地でアクロバット飛行を行うT-2が目撃されるようになった[67]。既に航空自衛隊では1980年度(昭和55年度)中にF-86Fを全て退役処分とする予定が決まっており[65]、F-86Fを使用したブルーインパルスの展示飛行も1980年度で終了することが正式に決定した[65]。, なお、1979年(昭和54年)1月にF-86Fのパイロット養成が終了したことに伴って第1飛行隊が解隊された[68]。そのため、ブルーインパルスは第35飛行隊所属の戦技研究班となった[68]。, 1981年(昭和56年)2月8日に入間基地で実施された展示飛行が、F-86Fを使用したブルーインパルスとしては最後の展示飛行になった[40]。この最後の展示飛行では、松島基地から通常塗装のT-2が飛来してアクロバット飛行を披露した[69]。F-86Fを使用した展示飛行の実績は545回だった[40]。その後、浜松北基地で3月3日に行われた飛行訓練が最後の訓練となり[40]、同年3月31日限りで第35飛行隊の戦技研究班も解散となった[40]。, F-86Fの後継機については、日本で製造した「国産機」によってパフォーマンスを行うことが、自国の防衛力や航空産業のレベルを誇示する上で大きな意義があると考えられた[70]。このため、前述したように後継機としてT-2によるアクロバット飛行について研究の指示が出されていた[65]。, T-2は超音速機であることから、飛行速度の高速化に伴いターン(旋回)やループ(宙返り)の半径が大きくなり、会場上空へ戻るのに時間がかかるため、課目の間の時間が長くなる[69]。このため、「T-2では単独機を1機増加させた6機体制での展示飛行が効果的である」という研究報告がまとめられた[70]。これに伴い、1979年(昭和54年)にはブルーインパルス用として6機のT-2が予算として計上された[70]。つまり、編隊飛行による演技の間隙を単独機による演技で埋めるという工夫である[69]。, 1980年(昭和55年)10月には次期ブルーインパルスの塗装デザインの一般公募が行なわれ[70]、2,055作品が集まった[71]。1981年(昭和56年)1月には、女子高校生4名による合作デザイン案が最優秀賞として採用された[71]。1982年(昭和57年)1月12日には松島基地の第4航空団第21飛行隊内に戦技研究班が設置され[68]、同年3月10日までに新造された6機のT-2がすべて引き渡された[68]。機種の変更と同時に、パイロットと地上要員の制服についても新しいデザインとなり[69]、さらに地上でのパフォーマンスも変更された[69]。, こうして、F-86Fブルーインパルスの最終展示飛行から約1年半が経過した1982年(昭和57年)7月25日、松島基地航空祭において、T-2を使用したブルーインパルスでは初の展示飛行が実施された[70]。ただし、当日は天候不良のためアクロバット飛行は行われず、2機を使用した低空飛行(ローパス)と編隊飛行のみが披露された[68]。同年8月8日に行われた千歳基地の航空祭からは本格的なアクロバット飛行による展示飛行が開始された[69]。, ところが、同年11月14日に行われた浜松基地航空祭での展示飛行において「下向き空中開花」という演技を行っていた時、4番機の引き起こしが間に合わず[72]、会場近くの駐車場に墜落するという事故が発生した[73][74]。これはブルーインパルス史上では初めてとなる展示飛行中の事故であり[72]、墜落機のパイロットは殉職、地上の民間人にも負傷者が出た[73]上、航空祭には報道のカメラも入っていたことから、事故の一部始終を録画した映像が夕方以降のニュースで繰り返し流される事態になった[75]。多くの報道では「危険な曲技飛行」として扱われ[75]、ブルーインパルスは発足以来最大の危機を迎えた[72]。, 事故原因の究明が行なわれ、編隊長のブレイクコールは通常より約3秒遅れ、墜落か生還かの分岐点から0.9秒遅れだった[76]。この短い時間を過失に問えるかどうかが問題となった[75]。当初は事故調査に対してどのパイロットも非協力的だった[77]が、静岡地方検察庁の杉本一重が「0.9秒の遅れがどのようなものかが分からないと公訴事案とするかの判断ができない」と考え[78]、実際にアクロバット飛行訓練に体験搭乗した後は、一転してブルーインパルスのパイロットは調査に協力的になったという[79]。, また、この事故より前に、やはり「下向き空中開花」の訓練中に隊長機のブレイクコールの遅れが発生しており[79]、この教訓からブルーインパルスのパイロットにおいては「リーダー機(編隊長機)の指示が遅れたと判断した場合、そのままリーダー機に追従するように」という申し合わせ事項が作成されていた[80]が、事故機のパイロットはその申し合わせに「編隊長の命令である以上は従う」という理由で拒否しており[81]、申し合わせ事項を明文化した「思想統一事項」が作成された際にも最後まで署名をしなかったという[82]。ところが、事故調査報告書においては、最終的には編隊長のブレイクコールの遅れが原因と結論付けられた[75]ものの、「危険を感じたのであればブレイクせずに編隊長についていくべきであった」として、事故機のパイロットの過失をも問うものになり[76]、「思想統一事項」の存在が、事故機のパイロットの責任をも問うことになった[83]。その一方、事故機のパイロットは本来の飛行予想ルートからは外れた場所に墜落しており[84]、本来のルートの延長線上には住宅地や東名高速道路があったことから[85]、事故機のパイロットは「墜落しても被害の少ない場所」を選んでいたのではないかと推測されている[86]。なお、事故機にはフライトデータレコーダーやボイスレコーダーは搭載されていなかった[87]ため、真相は不明である。, この事故の後、ブルーインパルスは徹底的に活動を自粛していた[75]。松島基地のある周辺自治体でも「ブルーインパルスは出て行け」という雰囲気で、とても訓練が出来るような状況ではなかった[73]。しかし、航空自衛隊にとっても広報活動の大きな柱を失うわけにはいかなかった[75]。実機の飛行とシミュレーターによる徹底的な検証が行われ[72]、安全対策を検討した結果[72]、1983年(昭和58年)10月25日の朝霞駐屯地における自衛隊観閲式での展示飛行から活動を再開することになった[72]。しかし、この時点での活動は航過飛行のみで、アクロバット飛行についてはその後も慎重に検討された[72]。最終的に、展示飛行の際の飛行高度引上げ[75]、「下向き空中開花」の課目からの除外[72]などを条件にして、1984年(昭和59年)7月29日の松島基地航空祭からアクロバット飛行を含む展示飛行が再開された[72]。, 展示飛行を再開した1984年(昭和59年)には8回[75]、翌1985年(昭和60年)には年間18回の展示飛行を行う[75]など、事故後のブルーインパルスは順調に展示飛行を繰り返していた。1990年(平成2年)4月1日には国際花と緑の博覧会の開会式上空で会場の上空に全長20kmにも及ぶ巨大な花のマークを保有する9機すべてを使って描き[88]、同年6月3日の岐阜基地航空祭ではT-2ブルーインパルスとしては100回目となる展示飛行を行い、表面的には順調だった[72]。, 一方、ブルーインパルスは広報活動の一環ではあったが、この頃までは隊員と一般市民が接する機会があまりなかった[73]。これは「パイロットは映画スターでも何でもない」「いい気になっていたら事故を起こす」という考えがあったことによる[89]。しかし、1986年(昭和61年)からは市民との交流に前向きな取り組みが開始され[89]、航空祭ではパイロットのサイン会も行なわれるようになった[89]。, しかし、こうしてブルーインパルスとしての活動が活発になるにつれて、問題が発生していた。, ブルーインパルスのパイロットは教官を兼務しており、これはF-86F時代と変わっていなかった[89]。このため、アクロバット飛行訓練の時間が十分に確保できず、結果的にブルーインパルスへの在籍期間が長くなった[72]。これは実働部隊(TAC部隊)から長期間離脱するということになり、戦闘機パイロットにとっては好ましい状況ではなかった[89]。また、航空祭の時期ともなれば「木曜日か金曜日に展開のため他の基地に移動、土休日に航空祭の展示飛行をこなして松島基地に帰還」というスケジュールとなり[72]、残る月曜から水曜の3日間でアクロバット飛行の訓練ともに教官としての業務もこなさなければならなかった[89]。, さらに、T-2ブルーインパルスが活動を開始する少し前の1981年(昭和56年)12月17日には、より実戦的な空中戦教育を行うための組織として、築城基地で飛行教導隊が発足していた[90]。このような状況では、「戦技研究班」と称しつつアクロバット飛行専門であるブルーインパルスを希望するパイロットは少なくなっていた[89]。, その一方で、1980年代後半には、自衛隊を中途退職して民間航空会社へ転職するパイロットが増え[91]、あまりに退職者が多いためにスクランブル待機の勤務間隔が短くなるなど[92]、実任務にも支障が出る状況になっていた[92]。ブルーインパルスでさえ、1990年3月にはパイロットの半数が転出や退職となり、9ヶ月ほどの間は6機体制での演技が不可能になっていた[93]。, こうした問題を背景として、1989年(平成元年)ごろから現在のT-2によるブルーインパルスの後継チームの検討が始まっており[94]、防衛庁の1991年度(平成3年度)予算案では「戦技研究班向け」として6機のT-4が含まれていた[95]。, しかし、1991年7月4日、金華山沖で訓練をしていた4機のうち2機が墜落するという事故が発生した[89]。原因は海霧の中で編隊長機が空間識失調(バーディゴ)に陥り、編隊が左に傾いたのが原因とされた[72]。しかし、この当時の編隊長は曲技飛行チームの中で孤立した状態にあった[96]こと、また編隊長は1979年(昭和54年)10月に第21飛行隊に異動となってから12年もの間異動がなかった[91]こともあり、前述の任期の問題が顕在化した事故とも考えられた[94]。, ブルーインパルスは約1年間ほど飛行自粛となった[72]。訓練および運用規定の見直しを行なった上で[72]、1992年(平成4年)8月23日の松島基地航空祭から展示飛行を再開した[97]。なお、この時点では4機での展示飛行であった[97]。, この時期には既にT-4による新しいブルーインパルスの導入は確定しており[89]、同年10月には第4航空団第21飛行隊内に「T-4準備班」が発足していた[98]。このため、航空自衛隊の中でも、ソロ要員の養成が間に合わず、機体の補充も難しいという理由から、6機体制へ戻すことについては消極的だった[89]。しかし、ブルーインパルスの関係者は「T-2によるブルーインパルスの最後は6機で飾りたい」と考え[89]、訓練時には通常仕様のT-2を使用するなどして6機体制での展示飛行を実施することがあった[94]。新規に要員の養成も行われ[89]、1994年(平成6年)には通常通りの展示飛行が再開された[72]。同年8月10日には三沢基地航空祭においてサンダーバーズとの競演も実現した[94]。この時に作成したパッチで、ロゴの無断使用をサンダーバーズから諭されたというエピソードがある[99]。, 一方、T-4による新しいブルーインパルスの準備も進められ、T-2によるブルーインパルスは1995年(平成7年)で活動を終了することになった。最後の展示飛行となったのは同年12月3日に行われた浜松基地航空祭で[72]、T-2ブルーインパルスとしては通算175回目の展示飛行だった[72]。なお、1982年(昭和57年)の墜落事故以降、浜松基地航空祭では「浜松スペシャル」と題した「水平飛行系演技」のみとされており、この最終展示飛行も「水平飛行系演技」のみで締めくくられた[47]。訓練飛行は1995年12月8日が最後となり[97]、同年12月22日付で第4航空団第21飛行隊内の戦技研究班は解散した[97]。, 1989年(平成元年)ごろから進められていた新しいブルーインパルスの準備にあたって、関係者は「展示飛行を専門とする独立した飛行隊」を設けることを考えた[100]。, T-2の時代まで、ブルーインパルスのパイロットは教官と兼務する形態で、パイロットの負担が大きかった[98]。独立した飛行隊とすることによって、航空祭などのイベントがある週末は忙しくなるものの、週明けには休暇が取得可能となる[9]。また、ブルーインパルスのパイロットになることによって戦闘機パイロットとしての生涯飛行時間を削ることになる[94]という問題についても、任期を3年と約束し、任期終了後はもとの部隊に戻る体制とすることによって、ブルーインパルスの任務に対して士気が保たれる[9]。さらに、教官と兼務ではブルーインパルスのメンバー養成にも支障をきたすことがあり[101]、これを解決するためにも独立した飛行隊にすることが必要と考えられた[101]。, 展示飛行専門の飛行隊を新規に創設することは容易ではなかった[98]が、折りしも1990年代は災害派遣や国際貢献などで自衛隊が活動する機会が増加しており、自衛隊に対しても国民からの理解が深まっていた時期で[9]、自衛隊は広報活動に対して、より積極的になっていた[9]。, こうした背景から、前述の問題点を解決して安全で効率の良い運用を行うため、展示飛行専従の部隊として独立することが認められた[101]。1992年(平成4年)11月6日にはブルーインパルスの塗装デザインの一般公募が行なわれ[101]、2,135作品が集まった[101]。その中から、精神科医で飛行機ファンでもある[101]斎藤章二のデザイン案が採用された[102]。また、展示飛行の課目についてもT-4の性能を生かした内容が検討された[95]。, 1994年(平成6年)10月1日には松島基地第4航空団に「臨時第11飛行隊」が編成された[9]。翌1995年(平成7年)7月30日には研究飛行と称するアクロバット飛行が松島基地航空祭において一般公開され、T-2のブルーインパルスと競演した[9]。同年11月12日には百里基地で一般公開された航空訓練展示でもT-2のブルーインパルスと競演した[9]。この時はブルーインパルス塗装のF-86Fも展示された[103]ため、3世代のブルーインパルスが同時に展示されることになった[104]。同年12月22日、第4航空団第21飛行隊内の戦技研究班が解散すると同時に、「臨時」のない第11飛行隊が制式飛行隊として発足した[101]。, こうして、1996年(平成8年)4月5日の防衛大学校入学式で航過飛行(フライバイ)による展示飛行[105]、同年5月5日に岩国基地で開催された「日米親善デー」ではアクロバット飛行による展示飛行[105]を皮切りに、新しいブルーインパルスの活動が開始され、この年度は22回の公式展示飛行が行なわれた[106]。, 第11飛行隊として発足した翌年の1996年(平成8年)、アメリカ空軍からブルーインパルスへ、アメリカ空軍創設50周年を記念してネバダ州のネリス空軍基地において行なわれる航空ショーである「ゴールデン・エア・タトゥー」 (GOLDEN AIR TATTOO) での展示飛行の招請があった[105]。これに対して検討を行なった結果、1億数千万円を投じて[107]、ブルーインパルス史上初となる国外への展開が決定した[105]。, しかし、アメリカでは観客の方向に向かって飛ぶことは禁じられており[1]、高度制限もアメリカの方が厳しい[1]など、日本とアメリカでは展示飛行の基準が異なっていた。アメリカ連邦航空局 (FAA)の係官が来日し、松島基地でアクロバット飛行の内容をチェックし[108]、さまざまな懸案が指摘された[1]。これに伴い、課目についても進行方向を変えたりするなど、部分的な変更を迫られた[1]。, ブルーインパルスが運用するT-4には太平洋を横断するだけの飛行能力はなく[109]、輸送船に船積みした上で海上輸送することになり[105]、1997年(平成9年)3月4日からアメリカ本土への移動が開始された[110]。まず陸上自衛隊の木更津駐屯地まで機体と機材を輸送し[1]、そこで輸送船にクレーンで船積みされ、同年3月10日に木更津港を出港した[111]。パイロットが渡米するまでは訓練に使用できる機材がない[111]ため、第1航空団と第4航空団の教育集団から通常仕様のT-4をリースして訓練を行なった[112]。なお、通常仕様のT-4ではバードストライク対策のキャノピー強化が施されていないため、訓練は通常より高い高度で行なわれた[113]。, 機体は同1997年3月28日にカリフォルニア州サンディエゴのノースアイランド海軍航空基地に到着[111]。同年3月26日に成田を出発した整備員が受領し、整備が行われた[112]。パイロットは4月5日に松島基地を出発し、4月6日に成田から出発、現地で整備員と合流し、4月10日にネリス空軍基地へ向かった[114][注釈 2]。ネリス空軍基地ではサンダーバーズが使用する空域を使用した訓練が行なわれた[117]。ネリス空軍基地は近隣にラスベガス・マッカラン国際空港があるため、訓練には40マイル北にあるインディアンスプリングス飛行場も使用した[118]。ネリス空軍基地は標高が高いことから気圧が低く[117]、空気密度が低いためエンジンのパワーが落ち、編隊を組むのも容易ではなかったという[117]。また、砂漠での訓練飛行は地上目標物が少なく苦労したという[119]。, 「ゴールデン・エア・タトゥー」は同1997年4月25日・26日に開催された。アメリカ空軍のサンダーバーズのほか、カナダ空軍からはスノーバーズ、ブラジル空軍からはエスカドリラ・ダ・フマサ、チリ空軍からはアルコネス、そして日本からブルーインパルスと、5カ国のアクロバット飛行チームが競演することになった[120]。アメリカ空軍ではこれ以外にも、イギリス・イタリア・ロシア・フランスのアクロバット飛行チームにも招待状を送っていた[121]が、渡米費の捻出ができずに参加を断念している[107]。ただし、イギリス空軍とオーストラリア空軍は戦闘機の展示として参加した[122]。, 低騒音であることがアメリカ人には物足りなかったらしく[123]、サンダーバーズのような迫力はなかった[110]ものの、正確で緻密なパフォーマンス[110]、日本とは全く異なる環境であるにもかかわらずトラブルのなかったブルーインパルスの整備・支援体制は[105]、参加した軍関係者からも高い評価を得られた[110]。「チェンジ・オーバー・ターン」という課目を見たサンダーバーズのパイロットは正確な機動に賛辞を惜しまず[124]、南米のチームのパイロットも "Precise!"
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